己の影とは違う薄闇とやけに重い四肢に、伏黒はすぐに「これは夢だ」と判断した。
膝下にまとわりつく何かを振り払うように足を踏み出すと、それだけで体力を削られたような錯覚に陥る。全身の伸し掛かる空気と疲労感で数歩も保たずに息が切れた。
早くこの場を離れなくては、目を覚まさなくてはならないと言う焦燥感と比例するかのように、足は重く沈んでいく。
「鬼ごっこはもう終いか?」
鼓膜に響く音。背筋を這い回る悪寒。覚えのあるそれに伏黒は身を固くした。
あざ笑うかのような吐息とともに背後から腰を抱き込まれて息が詰まる。酸素を求めて大きく開いた口を、別の腕に捉えられた。
「そう怯えるな。オマエに呉れてやりたいものがあるだけだ」
伏黒の眼前に現れた三本目の腕が靭やかに指を鳴らす。乾いた破裂音とともに現れたのは、鮮やかな朱と艶やかな黒で彩られた漆塗りの膳だった。
「な、にを……」
秀麗な装飾を施された平皿に載せられているのは、その器に似つかわしくないほどに不自然な臓物。
力強く脈打つそれを見て、伏黒の脳裏に巡るものはただの一つだ。
こびりついた記憶に全身から嫌な汗が噴き出す。崩折れそうな伏黒の身体を支えているのは諸悪の根源である宿儺の腕で、その事実がまた不快感を生んでいく。
離せ、という言葉は声にはならなかった。ひりついた喉は空気を取り込むことで精一杯で、意味を成す音を発することができない──最も、声に出せていたとして相手がそれに従うとも思えはしなかったが。
「此れは夢だ」
愉しげな宿儺の声が耳に届く。
「潰しても刻んでも、小僧は死なん。安心したか? 伏黒恵」
その言葉のどこに安心出来る要素があるというのか。
宥めるように腹と首を撫で擦る宿儺の手から逃れようと、伏黒は僅かに身を捩った。
「喰らえばここから出してやる」
ただの余興だと嗤う声に腸が煮えくり返る。どれだけ藻掻いても暴れても、びくともしない力量の差にも腹が立った。
宿儺の腕が無造作に皿の上のものをつかみ、伏黒の口元へと運んでいく。
脈打つ心臓。赤黒く艶のあるそれは、虎杖悠仁が死んだその日に見たものと同じだ。
(これは、夢だ)
夢ならば、朝になれば覚めるはずだ。
せめてもの時間を稼ごうと、伏黒は口を引き結び、迫る臓物から顔を背ける。
「目覚めるまでそうするつもりか? 割り切ってしまえばいいものを」
口端を掠め頬を撫でる生暖かい血の感触。鼻腔から肺に張り付くような甘い死臭に目眩がした。
固く目を閉じ顔を伏せ、じっと耐える伏黒の唇に宿儺は執拗に心臓を押し付ける。
それを幾度か繰り返した後、宿儺は不意に手を止めた。
考え込むような一瞬の間と僅かに緩んだ拘束に呼応するように、伏黒の体の緊張が解ける。
「油断したな」
その隙を狙っていたかのように宿儺の四本目の腕が伏黒の頭を捉え、力ずくでその顔を上げさせた。自然と開いた口に二本の指をねじ込まれると同時に、塗りたくられた血が舌に触れる。それを飲み込むことを拒絶して、喉を通らない唾液を交えて口の端からこぼれ落ちる。
首筋を伝う体液を弄ぶように蠢く宿儺の指に、ぞわりと肌が泡立った。
「流石にひと呑みというわけにもいかんか」
こじ開けた伏黒の口内を探りながら、宿儺は手にした心臓を中空へと放り上げる。そのまま指を繰って浮いた臓物を小さく刻むと、その一片だけを指でつまんで伏黒の目の前に差し出した。
「今日のところはこれで赦してやろう」
刻まれてなお蠢いているその不気味さと、他の肉片が地に落ちる濡れた音。
血の塊とも呼べるそれが伏黒の舌に載せられ、入れ替わるように指が引き抜かれる。
「うっ……ぐ」
あまりの嫌悪感に吐き気を催したが、強制的に閉ざされた口を大きな手のひらで覆われた。
「ほら、頑張れ頑張れ」
幼子をあやすように頭を撫でる手と、軽々しい台詞。ただ弄ばれているだけなのだと思うと、悔しさに涙が溢れる。
生の臓物が口内で脈打つ不快感。鼻を抜ける鉄さびの匂い。全身を這い回る人ならざる者の手。夢の中だからこそ、伏黒には耐えられるだけの自信がなかった。
「……ふ、う」
泣きながら嚥下するその姿に、伏黒を抱き込む四腕がひどく愉しそうに揺れて、離れた。
膝をついて蹲り、咽て咳き込む伏黒の背を撫で、鬼神は悠然と口を開く。
「次は、オマエも愉しめるものにしてやろう」
腹のそこに響く嗤い声。明るく開かれた視界と浮遊感。約束通りに開放されたのだという安心感と共に、飲み込んでしまったものへの罪悪感が押し寄せてくる。
否が応でも顔を合わせることになる隣人に申し訳なく思いながら、伏黒は目を覚ました。