幸せの終着

  1.
 そういえばこの男は本物のクズだった、と、部屋の惨状を見て五条は思った。安い小さなアパートの一室。半年ほど前に住人が一人減ったその住居は、それでもそれなりにきれいに整頓はされていたはずだ。
 それが今はどうだ。
 開け放たれていた窓から五条の立つ玄関に抜けてくる風は、歓楽街を連想させるような据えた匂いをはらんでいて、まだ日が高いというのに敷かれた布団の乱れ方は、完全に事後のソレだ。
 壁際に押しやられた座卓の上にはシワの寄った万札が数枚と、競馬新聞のはみ出たコンビニ袋が置いてあった。そのすぐ側に腰を下ろしているのは、普段この家にいない甚爾だ。携帯電話を耳にあて、なにか話しているようではあったが、流石に内容までは聞こえてはこなかった。
 五条の目的としていた人物は見える範囲に姿がない。風呂場から聞こえる水音と室内の状況から、導き出せる結論は一つだ。
「アンタ息子に体売らせてんのかよ」
 クソが、と五条は侮蔑の言葉を投げる。通話中だろうが知ったことか。普段は取り繕っている口調も素に戻ってしまった。
 言われた本人はなんとも思っていないのだろう、甚爾は適当に通話を終わらせて五条を一瞥すると、小馬鹿にするような笑みを浮かべる。
「どっかの六眼のガキに左腕持ってかれちまってから稼ぎが悪くてなぁ」
「はぁ? 人のせいにすんなよ。つーかそれ何年前の話だよ」
 三和土に靴を脱ぎ捨てて部屋へと上がる。情事の痕が色濃く残る場所に踏み込みたくはなかったが、心身ともに疲れているであろう甚爾の息子――恵に、部屋の片付けをさせるのも酷だろうと思った。
 目についたゴミと汚れた衣類を適当につまみ上げてまとめてゴミ袋に放り込みながら、窓際へと真っ直ぐに足を進める。
 触れることすら憚られた布団は端をつま先で持ち上げて、まとめて二つ折りにした。衣類ごと全部まとめて捨ててやる。必要なら後で買い与えてやればいいだけの話だ。
「――いつからやらせてんの、こんなの」
 開け放たれた窓枠に腰掛けて、問う。
 マーカーを手に真新しい競馬新聞に目を落としたまま、甚爾は事も無げに答えた。
「最近だよ。今日ので四人目だ。――津美紀にはやらせてねぇ」
 言外の意図まで汲んでの回答に、五条は苦虫を潰したような顔をして舌を打つ。悪いことをしている、という自覚は一応あったらしい。だからこそ腹が立つ。
「やっぱあん時殺しときゃよかった」
「はっ、言ってろ」
 五条の言葉を鼻で笑い、甚爾は卓上の紙幣を掴んでポケットにねじ込む。短く震えた携帯の画面を確認し、立ち上がった。
「でかけてくる」
「いくら?」
「あ?」
「恵。いくらで売ってんの」
「安かねぇぞ」
 そもそも明確な金額など決めていないのだろう。相手の言い値にこの男が満足するかどうか、といったところか。
 五条は自分の財布を甚爾に投げつけて、言い捨てる。
「全部抜いていい」
 あわよくば顔面に当ててやろうと思っていたのに、その目論見は太い右腕に容易く防がれてしまった。
 甚爾は一瞬虚を突かれたような顔をしたが、すぐにいつもの狡猾な笑みを浮かべると、受け止めた財布を躊躇いもなく開いた。いくら入っていたかなんて覚えてもいなかったが、少なくとも座卓に放られていた以上の金は入っていたはずだ。
 紙幣のすべてを数えもせずに抜き取って、薄くなった財布を床に放る。カードと小銭に手を付けないあたりが手慣れている。
「ついでにアイツの世話も頼むわ。このままほっとくとふやけても出てこねぇ」
「は? どういうことだよ」
「あのクソ野郎、中に出しやがった」
 ナニを、ドコに、なんて聞かなくてもわかる。シャワーの降りしきる音が一向にやまない理由はそれだったのかと合点がいった。
「そんな状態の子供ほったらかして出かけるってどういう神経してんだ。ほんっと、ろくでもねぇ父親だな」
 クソはどっちだと重ねて言うが、また鼻で笑われて流された。この男にはどんな侮蔑の言葉も効かないことは、五条自身も良く判っている。
「契約違反だからな、野郎の身包み剥いでやるんだよ。――言っとくけど、オマエも例外じゃねぇからな」
 座卓の下に転がっていたらしい避妊具の箱を五条の足元へと蹴り寄越し、甚爾はくるりと背を向けた。
 じゃあな、と右手を上げて出ていくのを見送って、五条はぽつりとつぶやく。
「マジで殺しときゃよかった」
 なんの印もつけられていない競馬新聞が、あざ笑うように乾いた音を立てた。

「恵、開けるよ」
 水音の途切れない浴室の前に立って、五条は軽く声をかける。上着と靴下だけを脱いで適当に放り投げ、そのまま扉に手をかけた。返事は待たない。待っていたところで応えが返って来ないことはわかっていた。
 踏み込んだ浴室は酷く白んでいて息苦しい。給湯器だけを入れ替えたような古い浴室は、そもそも熱気がこもりやすいのだ。ふやけるどころの問題ではない。
 シャワー口からとめどなく流れている湯は常より熱く、色濃い湯気が立ち上っている。床を跳ねる飛沫が浴室の外にまで及んでいたが、入り口の戸は閉めなかった。
「恵」
 もう一度、今度は強めに名前を呼んで、服が濡れるのも構わず中へと踏み込んむ。湯船に沈むように蹲っていた黒い頭が小さく揺れた。
 流れ続けていた水を止め、浴槽を覗き込む。静かに開いた双眸は焦点が定まらずぼんやりとしていた。
「換気もしないで何やってるの。ホントに死んじゃうよ」
 浴槽に張られた湯は浅く、座り込んだ恵の腰ほどの高さまでしかない。指先を入れて確かめた水温は、人肌よりもぬるいくらいまで冷めていた。
「ごじょ、さん……?」
 ふわふわと漂っていた視線が五条を捉える。
「僕が来てたの気づかなかった?」
「……寝てました」
「それは寝てたんじゃなくて気絶してたって言うんだよ。前にも教えたでしょ」
 のぼせているのか酸欠なのか、あるいはその両方か。頭が回っていない様子の恵の反応は常よりも鈍い。ゆらゆらと揺れる首を支えるために、五条はその背に腕を回す。
 濡れた布が肌に張り付く感触に恵はびくりと体を震わせて、面を上げた。
「アンタ、服」
「なに今更」
「っていうか、なんで」
「ずぅっと出てこないから心配してきたんだよ。声は掛けたよ?」
 返事は待ってないけど、とは言わず、慌てたように逃げ打つ恵の身体を抑え込む。
「……で、ナカはちゃんと洗えたの?」
 半ば反射的に振り上げられた恵の拳は、五条には届かなかった。
 腕を取られてもなお暴れようとするのを宥めつつ、五条は冷静に言葉を選ぶ。
「真面目な話だよ。ちゃんとしないとダメなことくらいは知ってるでしょ」
「……はい」
「できたの?」
 いいえ、と答える声は酷く弱々しくて、だいぶ参っているのだろうことが伺える。
「このまま僕を支えにしてていいから、言うとおりにやってみて」
 五条は恵を膝立ちにさせ、上半身を自分に凭れさせるような体制にすると、捉えたままの恵の右手を彼の臀部へと導いた。左手はすがりつくように五条の服をつかみ、小さく震えている。
「さっきまでもっと太いのが入ってたんでしょ? 指の一本や二本入れたって切れたりしないよ」
 二度三度、赤子をあやすように背を叩きながら言う。あえて下世話な言葉を選び、優しさも情も含めてなどやらなかった。
 可哀想な立場なのだと認識させることは、相手をより追い込むものでしかない。
 腫れて熱を持った後孔へ、五条は躊躇いなく指先を潜らせる。入り口は若干乾いてはいたが、第一関節まで含ませる前にぬるりとした体液が零れ落ちるのがわかった。
「恵」
 一つ、強めに名前を呼ぶ。ここに居るのはどこの誰かもわからないような男ではないのだと伝える意味もあった。
 俯いてしがみついた恵から、五条の顔は見えない。誰の気配かもわからなくなるほど朦朧としてはいないだろうが、閉じることのできない耳からの情報は大切だ。
「自分で指入れて、拡げて。相手のちんこがどのへんまで入ってたかわかる?」
「……そんな、奥までは」
「指で届きそう?」
 肩口で小さく頷いたのを確認して五条が指を引き抜くと、恵は意を決したように息を吐いて、自らの指をそこへ差し込んだ。
(粗チン選んでやがんなアイツ)
 空いた手でシャワーヘッドを掴み上げ、蛇口をひねる。流れ出る湯を足先に当てながら温度を調整した。
「お湯かけるよ。熱かったら言って」
 驚かせないように声をかけ、恵の太ももから腰へゆっくりとシャワーを浴びせていく。冷え始めていた身体に心地よかったのか、全身の強張りが少しだけ緩んだ。
「中も洗うから。ちょっといきんで」
 恵は時折苦しそうに喘ぐ以外の声は出さなかったが、五条の言葉に逐一首を縦に振って応えている。あの父親と自分に挟まれて、よくもここまで素直に育ったものだと五条は胸中で思った。
「恵さぁ……」
 小さく震える体を濯ぎながら、五条はようやっと、自分がここに来た要件を思い出した。
「寮に入るまで、うちにおいで」

 ひと月前と比べたら随分とさっぱりとしてしまった安アパートの一室に、五条は再び訪れていた。
 あちこちに積まれていた生活用品も、調理器具も、衣類も、その殆どがなくなっていて、以前五条が放置していった布団とゴミ袋も消え失せていた。
「このアパート、取り壊すんだって?」
 あの日と同じように窓枠に腰掛けた五条は、あの日と同じように競馬新聞に目を落とした甚爾に問いかける。
「どっから聞いたんだよその情報」
「企業秘密」
「あぁそうかよ」
「津美紀も恵も僕に任せておけば安心、と判断したってことでいいのかな」
「ちげぇよ。同じクズでも俺よか(五条家オマエ)のが金がある分マシだろ」
 人間性は同レベルだと言われたような気もするが、五条はさして気にした様子もなく空を仰ぐ。甚爾のその評価は、否定するほど間違っているものでもない。
「そんで? 何しに来たんだよ。(アイツ)の私物ならもう全部送ってやったろーが。着払いで」
「それはちゃんと受け取ったよ。――一つ聞いてみたいことがあってさ」
「なんだよ」
「息子さんを僕にくださいって言ったらどうする?」
「殺す」
「だよねぇ」
 間髪入れずに返ってきた答えは想定していたものとそっくり同じで、五条は思わずふきだしてしまった。ひとしきり笑って、それから一向に動かない甚爾の手元を見ながら、ふと浮かんだ疑問を口にする。
「そういえば、こないだのお馬さんはどうだった?」
「行ってねぇ。つーか質問は一つじゃなかったのかよ」
「身ぐるみは?」
「剥いで(お船・・)に呑ませてきた」
 事も無げにそう言った甚爾の(表情かお)を見て、身ぐるみ剥がされたその男がもう二度と恵の前に姿を表すことはないのだろうと確信した。