きみとぼくに足りないもの

「……またぁ?」
 家入から入った連絡に、五条の口から呆れにも似た声が漏れた。
「それはこちらの台詞だ。子供にあまり無茶をさせるな」
 いいから早く迎えに来いという言葉と共に一方的に通話は切られる。有無を言わせぬその態度と声音が若干の怒りを含んでいることには気づかなかったことにして、五条は仕方なく高専へと足を向けた。
 無茶をさせているつもりはないし、死なせるつもりも毛頭ないのだ。恵が一人でどうにかできるだろう依頼を選んではいるし、その目測が誤っているとも思わない。連絡も、極力すぐに受けられるようにはしていた。
(まぁでも……そうか)
 あの子供は昔から人に頼るのが苦手なタイプではあったか、と五条はぼんやりとそう思った。

 五条が医務室についた時、恵はすでに目を覚ましていた。ベッドの上で半身を起こし本に落とされた視線は、五条が部屋に入ってきてもそのままだ。
「なんだ、聞いてたより元気そうだね」
「おかげさまで」
 扉を閉めてすぐ側の壁に寄りかかる。
「わざわざ迎えに来てあげたのに」
「頼んでません」
「一人で帰れるの?」
「大丈夫です」
 顔は伏せられたまま、一向にこちらを見ようとはしない。ページを繰る手も止まっていて、恐らく目を合わせないために本を利用していると言ったところだろうか。
 何かを隠そうとするとき目線を合わせないのは、恵の昔からの癖だった。
 五条は緩慢とした動作でベッドに近づいて腰を曲げ、頑なに動かない頭を見下ろす。後頭部のあたりの髪は寝癖でくちゃくちゃになっていて、五条の到着を察知して慌てて身を起こしたのだろう言うのが見て取れた。
 子供らしい詰めの甘さに、自然と口角が上がる。
「恵はさぁ」
 常と変わらぬように呼びかけたつもりだった五条の意に反して、恵の身体は緊張したように強張った。
 五条はそのままゆっくりと腕を伸ばす。俯いたままの頭でもなく、カモフラージュに使われた本でもない――真白い布団に覆われたその脚へ。
「嘘つくの、下手だよね」
 言って軽く体重をかければ、声にならない声を上げて恵は腕を振りかぶった。力任せに放られた紙の束が、五条の顔の横を飛び、乾いた音を立てて床へと落ちる。
「――何なんですか!」
「『二三日は安静、今日は歩くのもしんどいだろうから迎えに行ってやれ』って言われたんだよ、僕は」
 恵の睨め付けるような視線を正面から受け止めながら、五条は静かに言葉を紡ぐ。
「しかもこれ、もう少し早ければここまで悪化はしなかったとも言ってたよ。どうせ回収されるまで放っておいたんでしょ」
 どうして終わってすぐに連絡しないの、と重ねて聞けば、恵はバツが悪そうに口を噤んで目を泳がせた。
 ベッドの脇にしゃがみ込み、拗ねた顔を覗き込む。ふいと逸らされるのを顎を掴んで無理やり自分に向けさせた。
「……で、ホントに一人で帰れるの?」
 五上の問いに、口惜しそうに歪められたその表情はきっと、己の不甲斐なさを痛感してのものなのだろう。
 言葉の助け舟を出してやるつもりはない。何事においても、自己を知り負けを認めるのは大事なことだ。
 答えを待って数秒、恵は観念したように口を開いた。
「すみません。帰れません」
「もう一声」
「……送ってください」
 調子に乗った五条の発言に、恵は吐き捨てるように答えた。
 それは間違いなく、五条に対する苛立ちの表情だった。

◆ ◆ ◆

 恵がそれなりに大きな怪我――命に関わるほどではないが、数日間の安静を言い渡される程度の――を負うのは今回が初めてではない。だからこそ五条は「また」と言ったし、家入はそんな五条に苦言を呈した。
 失敗は成功の母だとか、敗北から学ぶこともあるだとか、そんな教科書に載っているようなことを教えようという思想はない。そもそも呪術師にとっては失敗も敗北も、そのまま死に直結するような事柄だ。
 それでも、死の淵に立って初めて見えるものがあることも五条は知っている。死んでしまえばもとより未来は存在しないが、それを掻い潜って得られるものは大きい。
(とはいえ、だ)
 五条の目から見て、今の恵には死線を越えるには足りないものが多すぎる。
(どうしたもんかなぁ……)
 何を、どう伝えたらいいのだろうか。同じ「相伝の術式」を持って生まれた立場だと言うのに、育ってきた環境が違いすぎて適当なたとえ話すら出てこない。
 せめて津美紀の意識が戻ればと思わないこともないが、あの子に足りないものはそんな程度では済まないだろう。
「うーん、困った」
「あんたさっきから何ブツブツ言ってるんですか」
 背にしていたベッドの上から不機嫌そうな声を投げられて、五条はくるりと顔を向ける。考え直さなければいけないことが多すぎて忘れていたが、ここは高専の恵の部屋だった。
「あれ、起きてた?」
「寝たいんですけど」
「子守唄でも歌おうか? あ、添い寝の方がいい?」
「どっちもいりません。いいから、早く、出てってください」
 一語一語強調するような声色と共に、眉間に刻まれた皺が深くなっていく。不快さを顕にした恵の頭を軽く撫で、五条は立ち上がった。これ以上機嫌を損ねれば口だけではなく手も足も出るだろう。そうすれば、また治療のしなおしだ。
 素直に部屋の出口へと向かう五条の姿を見て、恵は小さくため息を付いき、誹るために上げていた頭を枕へと戻す。
 扉を開け、半歩踏み出したところで五条は立ち止まり、振り返り、言った。
「――六月にはさぁ、一年生もうひとり増えるから」
「前にも聞きましたよ。それがどうかしたんですか」
「そしたらさ、恵もちょっとは青春できるかなって」
「……は?」
 わけがわからない、という表情の恵を置いて、五条はそのまま部屋を後にした。