下拵え

 早朝、肌寒さを感じて目を覚ませば、いつも隣に寝ているはずの宿儺の姿がなかった。珍しいこともあるものだ、と思いながら伏黒は身を起こし、それからこの数日、幾度も尋ねられた言葉を思い出す。
――どこが食いたい?
 いや食わないし、と間髪入れずに食い気味に答えるまでがもはやセットとなってはいたが、おそらく相手は自分がその肉を口にするまで諦めるつもりはないのだろうことは、想像に難くない。
 そして、昨晩はその質問をされていなかった、とも気がついた。
 正確に言えば、その問答をする暇もないほど性急に求められ、半ば気を失うように眠りについたのだ。おかげで今現在、足腰が立たないほどの状態に陥っている。
 意識を手放す直前に見えた宿儺の顔は、いつものそれとはまた違う何かを企んでいるような笑みではなかったか。
(アイツ、まさか)
 思い当たるフシは他にもある。肉料理を出された後に、滅多に立ち入らない厨房で裏梅と話しているのを何度か見た。血抜きのために吊るされた鶏を前に何か考えている姿を見たこともある。
 極めつけは、何かの拍子に裏梅がポツリとこぼした言葉だ。
――煮込んでしまえば家畜と大して変わりませんよ。
 いや変わるだろう。どう考えたって牛や豚や鶏なんかとは違う。主に、精神的なものが全然違う。そう思いはしたがあえて口にはしなかった。藪蛇でしかないと思っていたからだ。
 あの裏梅の言葉に、宿儺はどんな表情で受け答えをしていただろうか。
 そこまで思い出して、伏黒はさあっと血の気が引いた。あの時点で宿儺はきっと、今日この状況を作り出すことまで計算していただろう。完全に相手の謀略に嵌ってしまった。
「玉犬」
 印を結んで影から式神を呼び出して、その背におぶさるように乗る。できうることならこんな、情事で動けなくなった主を運搬するなどという仕事をさせたくはなかったが、背に腹はかえられない。目指すは裏梅が居るであろう厨房だ。
 屋敷の間取りは把握している。敷地を出ない限り、宿儺も裏梅も口うるさく何かを言ってくることはなかった。小腹が空いて厨房を借りたこともある。知った道筋を辿って、厨房の土間に踏み込んだ伏黒の目に映ったのは、今まさになにかの肉を捌こうと包丁を構えた裏梅の姿だった。
「お早いお目覚めで」
「アイツは」
「宿儺様なら所要で外出されております」
 逃げやがったな、と舌打ちをして、裏梅の手にある肉塊へ視線を移す。
 皮は剥がれ、おそらく血抜きも済んでいるのだろう。繊維質の多いそれは、一見すればただの赤身肉のように見えないこともない――が。
「その肉は」
「……さて、なんでしょう」
 隠すつもりも誤魔化すつもりもないその態度に苛立つ。
「食わねぇぞ」
 伏黒が姿を見せた時点で、その言葉まで想定はしていたのだろう。そうですか、と静かに言って、裏梅は包丁を置いた。
「でしたらこちらは廃棄になりますね。それから」
 裏梅はそこで一呼吸置いて、玉犬の上にしがみつくように乗ったままの伏黒に目線を合わせ、やけに清々しい笑顔を浮かべて、言った。
「お召し上がりになるまで、数日置きに同じ目に遭われますけど、構いませんか?」
 それは構う。大いに構う。今までに幾度も抱き潰されたことはあったが、昨晩のそれはこれまでの比ではなかった。四肢を落とされたわけでもない、五体満足で抵抗の手段などいくらでもあったのに、圧倒的な力の差でねじ伏せられたようなものだ。いつまでも我を貫いていても、悪化していく未来しか見えなかった。
「まだ下拵えの段階ですので、ある程度ご要望にはお答えできますが。いかが致しますか」
 伏黒の迷いを感じ取ったのか、裏梅は淡々と調理法について提案を続けてくる。決定権など、あってないようなものではないか。
「それ全部、俺が食わなきゃいけないのか」
「そうなりますね」
 軽く見積もってもキロは越えているだろう。それだけの量を、一度に食べられるわけがない。これはもはや、諦めの境地だ。
「……生姜多めの時雨煮で」
「では、そのように」