『晩飯食いに来い』
五条がその短いメッセージを受け取ったのは、つい三日ほど前の事だ。その日はたまたま遠方の任務が入っていて、宿泊先も押さえた直後だった。断ろうかと一瞬迷って、返した内容は『いく』の二文字だ。
誘いが来るのは初めてだった。食事を共にしたことは幾度となくあるが、全て五条が押しかけるか誘い出すかの二択で、その度に甚爾は面倒くさそうにしながらも、幼い恵と共に付き合ってくれていた。当然費用は全て五条の財布から出て行くのだが。
「珍しいこともあるもんだなぁ、って、僕ちょっと楽しみにしてたんだよ」
「今日で四日目だ。嬉しいだろ」
「そうだね嬉しいよ。呼んでくれるのはね」
初めて呼ばれたその日、五条が訪れた時間はもう深夜に突入しようかと言う頃合だった。ほんの少しだけ気を遣って玄関扉を開けば、遅くなるなら言えという至極真っ当なお小言が飛んできた。
寝ている恵を起こさないように静かに温め直されて出されたものは、ケチャップのかかったオムライスだった。あまり馴染みのないその家庭的な料理に、五条はある種の感動すら覚えたのだ。
食べながら翌日の予定を問われ、素直に空いていると答えれば、明日も来いと返された。翌日、日が落ちる前に訪れた五条に出されたものは、またもやオムライスだった。
三日目――つまり昨日はついでに卵と牛乳を買ってこいと仰せつかり、オムライスを食べた。
そして今日が四日目だ。
「恵がオムライス好きなのかなって思ってたけど、これそうじゃないよね」
「そうだな」
小さなアパートの狭い台所。
五条はシンクの前に立ち、用の済んだ調理器具を次々と洗って片付けている。年代物の二口コンロの前では、甚爾が手際良くチキンライスを作っていた。
「何があったのこれ」
「半分はてめえのせいだ」
二人の間に挟まれた調理スペースで、木製の足場に乗った恵が無心で卵を割っている。
「思い当たることは無いけど」
「コイツの前で片手で卵割ったろ」
「ああー……やったかも。それで僕のせい?」
「真似したがんだよ。教えろってうるせぇから誤魔化してたのが台無しだ」
なるほどね、と頷きながら、五条はちらりと恵を見やる。ボウルの淵に卵をぶつけてしばらく片手で奮闘し、諦めて両手で割り開くのを繰り返しているようだ。
一パック全てを割り終えて、新しいパックに手を伸ばす。そこからいくつか割ったところで、恵は甚爾の袖を引いた。
「とーじ」
「終わったか?」
「ん」
「じゃあ皿出して向こうで待ってろ」
恵は小さく頷いて、残った卵を持って踏み台を降りる。卵を冷蔵庫に仕舞って平皿を三枚ボウルの横に置き、人数分のスプーンを持って居間の方へと姿を消した。
「二パック全部行くのかと思った。個数決めてるの?」
「いいや、なんも」
「へえー」
子供の采配で適当に割っているのだとしたら、随分と中途半端な数だな、とボウルの中を覗き込んだ五条は思った。それから、恵の足取りがいつもより心なし軽かったとも。
(……そういや、最初に来た時言ってたな)
五条が初めてこの家の敷居をまたいだ時、まず驚いたのはその食生活だった。
台所は古いとは言え、それなりに設備の整ったものだ。二口コンロに調理台、シンクを挟んでもうひとつ、小さめの水切りカウンターまで設えられている。間取りの割には広い方だろう。それにも関わらず、大して使われた形跡がなかったのだ。
勝手に開けた冷蔵庫には使いかけの卵とマーガリンがひとつ、他には要冷蔵の薬味や調味料のチューブが放り込まれていた。冷凍庫には冷凍食品が少々と、子供の文字で名前が書かれたアイスがいくつか転がっていたのを覚えている。「とーじ」と書かれたカップアイスが、霜に覆われていたことも。
甚爾が人並み以上に家事ができると知っていたからこそ、五条はその有様に困惑し、思わず「あいつ飯作ってくんないの?」と問いかけてしまった。いくらかの時間を置いて、恵は「上手いけどあまり作ってくれない」と答えたのだ。
「――恵さあ、甚爾の作ったご飯が食べたいんじゃない? 卵なんて、割ったらもうなんか作るしかないし」
「違えだろ。オマエと飯が食いたいんじゃねえか?」
「なんで」
「最初にオマエを呼んだ日、二人で食うには多すぎるっつったら追加で割られたんだよ。そんで『五条さん呼べばいい』ってよ」
来れなかったらどうするつもりだったんだろうか、という疑問は胸にしまい、あらかたの片付けを終え手持ち無沙汰になった五条は菜箸で卵を解きほぐす作業に入った。甚爾が無言で手を伸ばし、塩やら牛乳を追加していく。
「これどのくらい混ぜればいい?」
「テキトーで」
「味変わんない?」
「そんな繊細なモンじゃねえよ」
言いながら、甚爾は五条の手から箸ごとボウルを取り上げた。顎を上げ、向こうに行けと無言で示す。
甚爾の指示に大人しく従った五条は、ついでに牛乳を仕舞おうと冷蔵庫を開け、目に付いたものに思わず声を上げた。
「うわ、三連プリンとか久々に見た」
「恵が買ってきた。名前も書いてあんだろ」
言われて良く見てみれば、パッケージの上部には三人分の名前が個別に記されている。
五じょうさん、とーじ、めぐみ。
漢数字はもう教わっているらしい。甚爾の名前を書けるようになるのはいつだろうか。
「食後に出してやるから触んなよ」
「うん」
以前より物が増えた冷蔵庫の扉を閉めて、五条は先程恵がたどった経路を歩く。廊下もない、飾りガラスの扉で仕切られた先の部屋で、恵は児童書籍を開いていた。
(こないだ僕が買ってきたやつじゃん)
動物にまつわる、少しオカルトな話が集まったオムニバス本だった。たまたま本屋で見つけ、恵の術式への解釈を広げるのにちょうど良いだろうと買い与えた。幾度も読み返しているのだろう。表紙も小口も、少しよれて汚れている。
戸口で立ち止まった五条に、恵は気付いていない様子でページを繰った。左のページに子供向けにしては陰鬱とした絵が差し込まれている。そろそろ物語の区切りなのだろう。
五条はふらりと恵の隣に腰を下ろし、区切りの良いところまで静かにその本を覗き見ていた。
パタリと本が閉じられたところで声をかける。
「その本、気に入った?」
問いに小さく頷いて、恵は本を近くの棚へと仕舞いに行った。出会った頃から、物の扱いが丁寧な子供だった。
「――五条さん」
「うん、なに?」
「ごめんなさい」
なにか謝られるようなことをされただろうか。わからず首を傾げた五条に、恵はたどたどしく言葉を続ける。
「毎日、その……忙しいのに、呼び出したりして」
「あー、なるほどね。それは別にいいんだけどさ、なんで僕のこと呼んだの?」
「とーじが」
「うん」
「五条さんがいると、楽しそうにしてるから」
「えっ」
想定外の答えに、五条の思考は一瞬停止した。今の今まで、甚爾がそんな素振りを見せたことなど無いはずだ。
答えに窮して戸惑っていると、台所から声が聞こえた。
「おい坊、運ぶの手伝え」
「はいはーい」
座ったばかりだというのにまた呼び出され、五条は息を吐いて立ち上がる。
台所へ顔を出し、渡された二枚の皿に乗ったものを見て、また動きを止めた。
「え、なにこれ」
黄色いオムライスの上にかかっているのは、いつもの赤いケチャップではなかった。赤茶けた、デミグラスソースそのものだ。
「ケチャップ飽きたっててめえが言ったんだろ」
「そりゃ言ったけど。使うなら教えてくれたら美味しいやつ買ってきたのに」
これどこのやつ? とごく自然に出た問いに、甚爾は眉間に皺を寄せ、答えた。
「作ったんだよ。工程も材料もテキトーに端折ったから、オマエの口に合うかは知らねえけどな」
狭い入口に立ち止まったままの五条を足で追いやって、甚爾は手にした皿を恵の前にそっと置く。五条からは死角になって見えなかったもう片方の手には、片手鍋とケチャップを携えていた。
恵に出されたオムライスには、何もかかっていないのだ。
「オマエはどっちがいい」
恵の視線に合わせて腰を落とす背中は、まさに父親のそれだと五条は思った。
「……おんなじの」
逡巡して答えた恵の頭を撫でて、甚爾は鍋の中に立て掛けていたスプーンをとる。先から細く垂らされたソースが、黄色いキャンバスに線を描いて行った。
線だけで描かれた犬と、塗りつぶされた犬。スプーンの柄まで使って、額の模様まで描き足されていく。
「玉犬だ!」と喜ぶ恵に食事用のスプーンを渡して、甚爾は自分のいつもの場所へ腰を下ろした。鍋とケチャップは食卓の隅の方へと置かれている。
「僕のは何もないんだけど」
「いらねえだろ。ガキかよ」
「甚爾から見たら僕もじゅうぶん子供でしょ。今度は僕のにも何か描いてよ」
「……気が向いたらな」
甚爾がその返しをした時、気が向かないことは今まで無かった。恵との食事に関しては、だが。
期待に胸を膨らませ、五条は自分の皿を持って恵の隣に腰を下ろす。全員座っていただきます、がこの家のルールだった。
「そのソースってまだ残ってるの?」
「明日の分くらいはあるんじゃねえか?」
「じゃあ、明日も何があっても食べに来るからね」
三人で作ったオムライスに甚爾が作ったソースがかかっている。それだけでなんとも幸せな家族の肖像ではないか。と、五条はすくったオムライスを見て思う。
外から見たら、環境も境遇も関係性も「幸せな家庭」と程遠い所にいるようなものなのに。
「ハートマークに悟って描いてよ」
「嫌に決まってんだろ」
茶化して、間髪入れずに断られ。
そして翌日見ることになるのは、歪な図形に幼い筆跡で書かれた「五条さん」になるのだ。