骨を喰む

 右の手首を落とされて、あぁ、今日は機嫌が悪いのだなと思った。薄紫色の襦袢の三割ほどが赤く染まり、そこで止血だけは施される。どこまでやれば命が果てるのかを、この男はよく知っていた。
「裏梅」
 寝台の帳の向こうへ声をかけ、落ちたばかりの肉を放る。受け取った小さな影が恭しく頭を下げ、賜りましたと言葉を残し部屋を出て行くのを目で追って、今日の夕餉の肉は食えそうにないと、どこか他人事のように思う。
「なんかあったのか」
「いいや、なにもなかった」
「そうか」
 外に出てみたがつまらなかった。ただそれだけ話なのだろう。ただの八つ当たりではないかと憤っていた時期もあったが、腕の先を落とされては術式の発動もままならない。鮮血に染まった室内で、割と手ひどく抱かれた記憶は脳裏にこびりついたままトラウマのように張り付いている。二度三度と繰り返されるうちに、(こういう時・・・・・)は大人しくしている方が得策だということを学んだ。
 先のなくなった手首に、宿儺は慣れた手付きで包帯を巻きつけていく。機嫌は些か良くなっているようではあったが、念の為に尋ねた。
「……(左手こっち)は」
 まだ繋がっている左手で返り血に染まった襟首を撫でる。まだ多少、血を流しても死にはしない。どうせ落とすつもりならば早くしてほしかった。
「今宵は良い。どうせオマエは食わんのだろう」
「自分の肉なんて食いたいと思うほうがおかしいだろ」
 触れていた手指が赤く濡れる。この体液が自分のものだと思うと、悪寒にも似た何かが背筋を駆け巡った。
「――存外、慣れたものだな」
「慣れてたまるか、こんなこと」
 手を落とされて抱き潰された後、調理された自分の肉が食われる様を見せられるなど、正気の沙汰ではない。
――とは、思うのだが。
 腕を取られ、濡れた指を口に含まれる。血を拭うように這い回る舌の動きは情事のそれのようで、無意識に熱い息が漏れた。
「嘯いても無駄だぞ」
 手当を終えた手のひらが下腹を滑る。無傷な腕は囚われたままで、先の欠けた片腕では抗うことすらままならない。失って足りないはずの血が、宿儺の触れた箇所へとじわじわ集まっていくのを自覚して、目を逸らした。

「宿儺様、夕餉の膳はどちらへ」
 ふわふわと堕ちかけていた意識が、第三者の声で浮上する。いつの間にやら(治療なお)されていた右の手指は、赤黒く凝固した敷布を握りしめ、張り付いたように離れない。
「いつもの処で構わん」
 数刻前と変わらず、帳の向こうで頭を下げて行く裏梅の姿を見送りながら、ぼんやりとした頭で手指を開閉させれば、ぺりぺりと軽い音を立てて指が布から離れていく。
 再生した自分の骨ばった指を見て、ふと浮かんだ疑問を口にした。
「オマエは……他の(部位ところ)は食べないのか」
 手首から先は骨も血管も、神経も多い。食用には向いていないだろうと、常日頃から思ってはいたことだった。
 家畜と肉と同じように皮を剥いで骨を除き、匂いや食感の邪魔になりがちな筋や管を取り除いた可食部は、いったいどの程度のものなのだろう。
「不満か?」
「違う。ここに来てから他のところは食われてない……から」
 言いながら、少しずつ冷静さを取り戻した頭が言葉尻を濁らせる。
 これではまるで、ほかの部位も食べて欲しいと言っているようなものではないか。
「たった今、身動きが取れなくなるほど食ってやったばかりだと思うが」
「そうじゃなくて」
「良い良い、わかっている――そうだな、食われるのならどこがいい? 選ばせてやろう。肩か、腹か、(臓物その中)か。腕や足も良い。尻は美味いが、欠いたままでは交接に少し不便か」
 愉し気に笑いながら、口にした部位を手のひらが撫でていく。淡々とした口調とは裏腹に弄ぶようなその手つきが、収まりかけていた熱を呼び戻していくようで思わず身をよじった。
(裏梅オマエ)はどう思う」
 配膳を終えた旨を伝えに来た侍従へと、宿儺が問う。人の肉の扱いに長けた相手は、しばらく逡巡し、口を開いた。
「恵様がお召し上がりやすいのは、胸のあたりかと」
「いや、俺は、食わない」
「いつまでも人間のつもりでおられると、苦労なさいますよ」
「……別にそれは、自分のじゃなくていいだろ」
「左様で」
「成る程」
「なんで俺が食べるって話になってんだ」
「どちらも考えておけ。好きなところを食わせてやる」