屋敷の離れの、小さな土蔵の傍らに、小さな石碑を建てた。石碑と言ってもなんにもない、少しばかり形がいいだけの薄ペラい岩の欠片だ。石の下には何も埋まってなどいない。掘り返すことすらしなかった。意味が無さすぎて。
今はもう封鎖された古井戸が、この場所からはよく見えた。
面白みも無い講義の時間を抜け出して、ここにサボりに来たのはまだ幼かった頃の話だ。蔵の壁に背をつけて、澄んだ寒空を漂う雲を見ていた。水音がして下ろした視線の先に、彼がいた。
汚れた体を井戸水で流していたのだろうと、今であれば想像がつく。その当時は、この寒い季節に何故そこで水を浴びているのか理解ができなかった。
「甚爾君」
無数の傷跡が残る背中に声をかけ、気が乗らず懐に入れたままにしていた自分のおやつを差し出した。
「これ食うてや」
包装を剥がし、半ば無理やりその手のひらに押し付ける。
断られるのが恐くて、返事を待たずにその場を去った。けれど言葉を交わしたのは、その日が最後になった。
「ほんま、悟君はずるいなあ」
自分の方が、同じ場所で長い時間を過ごしていた筈なのに。まともに会話をする機会すらも得られなかった。
たくさんの傷を抱えたその体に、傷跡ひとつ遺すことすら叶わなかった。
もう何年か、早く生まれることが出来ていたのなら。
ただのひと時でも、隣に並ぶことは出来たのだろうか。
詮無いことを考えかけて、直哉は静かに頭を振った。
あの日に渡した甘ったるい豆菓子の行方だけでも、影から見送っておけばよかったと。そう後悔することすらも、無意味だ。