呪詛師への仲介を始めた理由は、ちっぽけなものだったと思う。愛した女とその子供に、出来るだけ多くの金を渡してやりたかった、その程度のものだ。その為には繋がりを断つ必要があって、俺は大金と引き換えに、大切なものを祖国に残して海を渡った。
仕事は順調かと言えば順調で、そうでも無いと言えばそうでも無い。呪霊も呪詛師も呪術師も、陰鬱とした感情の塊か、それを気にもとめないイカれたやつしかいなかった。最も、自分だって人のことをとやかく言えるような感性を持ち合わせてはいなかったが。
短期滞在の為に手配したボロアパートで、受け取ったばかりの書類を開いた。そこにはつい数時間前に起きた、大きな――しかし表に出ることのない事件のあらましが記載されていた。
禪院家で起きた術師の大量殺害。添えられていた敷地外からの盗撮写真には、殺戮と呼んでも差し支えが無いほどに凄惨な現場が映し出されている。
(天与呪縛……持たざる男か。この腕っ節なら手駒に欲しいな)
質の悪いモノクロの静止画ひとつで全てを判断できる訳では無いが、どの遺体も的確に急所を狙われ絶命している。四肢を失ったり過度に顔面を潰されているものもあるにはあるが、それらには私怨でも篭っていたのだろう。あるいは、飼い慣らしていた呪霊に反逆でも食らったか。
場所はここからさして遠くはなかった。もともと御三家の様子を探ろうと用意した部屋だ。タイミングが良かった。人の口は何よりも軽い。噂話のひとつでも手に入ればと思いながら玄関の扉を開けたところで、何かを引っ掛けて重くなった。
僅かに開いた隙間から見えたのは、血と泥に汚れた人の足先だ。
鼻緒のちぎれそうな草履に、濡れて鈍く光る黒い足袋。捲れた袴の裾から覗く足首は細いが、ふくらはぎにかけてやけに整った筋肉がついているのが見て取れる。
死体でも転がされていたら厄介だと力を込めたところで、重みが失せた。
「あぁ……人が入ってたのか。わるかった」
視界にあった足が動き、緩慢な動作で立ち上がるのが気配でわかった。聞こえてきたのは、覇気のない、若い男の声だ。
念の為、姿くらいは確認しておこうかと扉を開ける。全身を赤く染めた、虚ろな目をした男がそこにいた。
(……禪院、甚爾)
こちらには視線もくれずに立ち去ろうとするその腕を掴んだのは、半ば反射的なものだった。噂話のひとつでもと思っていた対象物が、目の前にいたのだ。
「その格好じゃ目立つだろ。風呂くらいは貸してやる」
咄嗟にでた俺の台詞に、奴は胡乱な目を向けた。振り払われるかと思った腕は、まだ脈拍を指先へと伝えている。奴は視線を上下に動かし、それから僅かに口角を上げた。
「アンタだいぶイカれてんな」
言って、俺の開けた隙間からぬるりと部屋へ上がっていった。
腕を離し、玄関の戸を閉める。軋んだ金属音と共に、室内に陰が落ちた。
「右の扉だ」
俺の言葉に小さく頷いて、奴は建付けの悪い引き戸を開いた。
三和土に乱雑に脱ぎ捨てられた草履を拾い上げ、俺はそのまま居室へと向かう。廊下に付いた赤い足跡を見て、早めに引き上げることを決めた。あいつが転がっていた場所も、そこに至る道筋にもおそらく血痕が残されているはずだ。
予定は全て変更になるが、あの男の方が、これから集める予定だった情報よりも価値が高い。俺はそう判断した。
必要最低限の物だけを並べた棚から黒いビニール袋を取り出し、血まみれの草履を放り込む。部屋の隅に置いていたスーツケースから、奴の身丈と体格で着られそうな服を引きずり出した。それからタオルと未開封の下着を手に取って、浴室へと戻る。
「替えを用意した。全部捨てるぞ」
確認のために声を掛け、脱衣所に散乱した衣類に手を伸ばす。そこで、妙な違和感を覚えた。
シャワーを流す音は聞こえている。曇りガラスの先に奴がいるのも見えている。はっきりと。
しかし、足元の通気孔から漏れているのは湯気ではない。冷気だ。
「――おい」
躊躇うことなく戸を開き、シャワーコックに手を伸ばす。お陰で全身水浸しだが、外に出る予定もなくなったのだ。構いはしない。
「何で水なんて浴びてんだ」
水を止め、濡れた裾と袖を捲る。靴下は脱いで脱衣所へ放った。
「水でいいだろ」
「良くねぇよ。身体が冷える」
シャワーヘッドを奪い取り、その場で湯温を調整する。奴は俺の手元をじっと見つめ、だからどうしたと言わんばかりの表情で首を傾げた。その仕草ひとつで、どういう環境で育てられていたのかが見て取れる。
俺はひとつ息をついて、空っぽの浴槽を指し示した。
「そこ入って座ってろ。洗ってやる」
反発も反論もなく、奴は素直にステンレス製の狭いそこへと収まった。浴槽に栓をして、ふちにシャワーヘッドを引っ掛ける。洗っている間に半身くらい浸かれる水位にはなるだろう。浴室に転がしてあった旅行用のシャンプーボトルを拾い上げ、中身を手のひらへと落とした。
「こっちに頭乗せろ」
手前のふちを指で叩き、誘導する。黙って粛々と指示に従う姿は、よく訓練された犬を思い起こさせた。さしずめ大型で黒い、外飼の番犬と言ったところか。
こちら側に背を向けて、頭を預け、喉を晒す。何一つ身につけていない状態で局部を隠すことすらもしない。警戒心のひとつも無いのか――それとも、何があってもどうでもいいという考えなのか。おそらくは後者だ。
(じゃなきゃあのナリで外をうろついたりはしねぇか)
両手で軽く泡立てたシャンプーで、しっとりと濡れた髪を洗う。頭皮には軽いマッサージをサービスしてやった。指先にざりざりと触るのは、戦闘中に舞い上がった土か、砂か。毛並みに逆らって指を滑らせれば、思いのほか白い肩が小さく震えた。
髪を濯ぎ、泡を落とすついでに冷えた身体にも湯を当てる。緩く撫でた肌には、不自然な凹凸がいくつもあった。
白く浮き上がる傷跡の大半は伸びて引き攣れていて、幼い時分についたものであろうことが見て取れる。肩甲骨の間、ちょうど心臓の裏側あたりに残された傷跡に指を滑らせると、微かに息を呑むような声が聞こえた。
こんな古傷に痛みがあるわけでもないだろうが、様子を伺いに覗き込んだ。
大丈夫か、と声を掛けるより先に目に付いたのは、首をもたげ始めた奴のソレだった。
「抜いてやろうか?」
相手は生娘でもないし、そもそも本人に隠す気すら見受けられない。からかい半分でそう言えば、少しばかり熱をはらんだ目がこちらを向いた。
「いい。いらねえ」
短く言って、奴はのそりと半身を捻る。浅く広がった水面から引き揚げられた手のひらが、薄く泡をまとわせたまま俺のベルトに掛かった。
「不能じゃねえならコッチ貸せ」
ぐ、と力を入れて引き寄せられ、体を離す隙もなかった、前方へ傾いで咄嗟に伸ばした手の行先は、側面の壁と正面にある浴槽の縁だ。
「待て」と制止する間もなく、奴はあっさりと下着までをもずり下ろした。それも、片腕で。手馴れているなんてレベルではなかった。
「目え瞑って女の事でも考えてろ。別に噛みやしねえよ」
傷跡のある口が弧を描き、開いた唇の隙間で濡れた舌が蠢く。先端に可愛らしく唇を落とし、先だけを出した舌で裏筋を舐め上げる。左手はタマを揉み、会陰を撫でる。性感だけを高めることに長けたその動きに、萎えていたはずのそれに少しずつ熱が集まっていく。
急所は奴の手の内にあり、足元は濡れて不安定。中途半端に下ろされた下衣は太ももの半ばに留まったままだ。
「ああ、クソ」
進退窮まる状況に、俺は一つ悪態をついた。
人のものを好き勝手に舐めしゃぶった男は、喉の奥まで咥えこんで飲み干した後、あっさりと俺を浴室から追い出した。
濡れた衣類を脱ぎ捨てて、奴のためにと用意していたタオルで体を拭う。新しいものを再度用意してやるのも癪な気がして、湿ったそれをそのまま置いて脱衣所を出た。
出掛けに椅子に引っ掛けたままだった部屋着を纏い、タバコを吸おうとして、ずぶ濡れになったシャツの胸ポケットに入れっぱなしだったことを思い出す。半分あいたソフトパッケージなど、おそらく再起不能だろう。どこかの店で貰ってきた紙マッチも一緒におじゃんだ。
俺は今日何度目かもわからないため息を吐いて、買い置いていたタバコの封を切る。油の張り付いた換気扇を回して、ガスコンロで火をつけた。使いかけのライターが荷物のどこかに埋もれているはずだが、探すのが億劫だった。
二度ほど紫煙を吐いたところで、乾いたシンクに灰を落とす。この家で、凡そ人間らしい生活を送ってはいなかった。使っていたのは先程までいた風呂場か、造り付けの棚とテーブル、その椅子くらいのものだ。
壁を隔てて響いていた水音が静まった。そろそろ上がって、出て来る頃だろうか。
俺はなにか食えるものが無かったかを探した。体格の割に平たい腹が気になったのだ。
残置物以外の生活用品はほとんどない。自炊をする気が俺にはなかったし、嵩張る調理道具を持ち歩くなど面倒なことこの上ない。食事は外で済ませ、水はペットボトルで何本かキープする。そんな生活で、常備食などあるはずもない。
「なんもねえな」
年代物の冷蔵庫を開けると、寝しなに飲むためのビールが数本冷やしてあった。それから、おたふくの顔があしらわれたソースが一本。
「……いや、あったな」
ここに来たその日に、小腹を満たすために買ったものが残っていた事を思い出す。引き開けた冷凍庫の中には案の定、開封済みのたこ焼きの袋が霜を被って転がっていた。賞味期限と書かれた刻印は四日ほど前の日付だが、それくらいなら許容範囲だろう。
袋の中身を紙皿にあけ、温める以外の機能がない電子レンジへ放り込む。劣化して黄ばんだダイヤルをてきとうに回したところで、奴が姿を見せた。用意した衣類は辛うじて入ったようだ。袖も裾も、僅かに足りてはいなかったが。
「その辺に座ってろ」
水滴の落ちる髪を乱雑に拭いながら、どこか所在なさげに立ち尽くしているのを見て、席を促した。
どこを見るともなくぼんやりと座る奴の前に、割り箸と水を置いてやる。温め終わったたこ焼きにソースをかけて出すまで、奴はただじっとそこに座っていた。
部屋に入れと言えば入る。座れと言えば座る。きっと、食えと言ったら食うのだろう。何にも興味がないのだ。おそらくは。
俺は灰皿代わりの缶を持って、奴の向かいに腰を下ろした。
「禪院」
名乗られていない名前を呼ぶ。ゆらりと上がった視線が、ようやくまともに俺を捉えた。
「俺から仕事を請けないか」
「……仕事?」
滞在中に適当な呪詛師でも見繕って回す予定だった依頼の紙をテーブルに置く。安い、低級の呪術師殺しの案件だ。
「必要なものは最低限こっちで用意する。やってみないか」
俺の顔を暫く見て、奴の視線は紙面に流れた。瞳は文字を追いかけ、左右に揺れている。
「報酬額も取り分も、内容によってまちまちだ。それは別の準備に金がかかった分、オマエの取り分が少ない」
俺の話を聞きながら、奴は箸を割り、たこ焼きを口に運ぶ。
「――何すりゃ終わりだ」
「そいつを殺せば終了だ。手段は問わない。死体の処理は別の奴がやる」
奴はわかったと静かに答え、紙をこちらへと差し戻した。
「コイツを殺るなら明け方の祇園だ。明日殺る」
「知り合いか」
「殺り損ねだ」
それで金が貰えるのなら御の字だと、禪院は口角を上げて笑った。
「――アンタ、名前は」
「孔時雨だ」
覚えててやる、と言いながら、拾った大男は紙皿の中身を空にした。