境界線

 恵が寮に入るから、と甚爾はそれまで住んでいた住居を引き払った。帰って来なくていい。自分が傍に居ない方がいいという心の表れだったのだろう。彼の息子が入寮してから、暫くは音信不通にすらなっていた。
「なにしてんの、甚爾」
「仕事。もう終わったけどな」
 二つほど隣の通りは出店で人がごったがえしている。対してこちらは、距離こそ離れては居ないものの、えらく静かな細道だった。
 汚れた壁に背をつけて大きく吐き出される息は、なるほど確かに珍しいほどの疲労を訴えているようにも思う。
「帰るアテは?」
 昔から留守がちな父親ではあった。帰ってくる時はたいてい赤黒い汚れにまみれていて、泊まる先が無かっただけと言うのも目に見えていた。
 ちょうど、今のように。
「今日はねえな」
 思った通りの回答に、五条はため息をついた。適当にポケットを探り、キーリングから外したばかりの鍵を取り出すと、甚爾へと放りやる。
「そこ、僕もうほとんど使ってないから勝手に使ってよ」
 咄嗟に受け止めた鍵と五条の顔を交互に見やり、甚爾は「はあ?」と間の抜けた声を上げた。
「場所はね……」
「いや聞いてねえ。いらねえよ」
「家具家電も一式揃ってるし、風呂も広いし割といいベッドも置いてあるよ。家賃も取らないし」
「俺を置いとくメリットがないだろ」
「実力のある人間を傍に置いとく以上のメリット、ないでしょ」
 本当はそれだけでは無い。結局のところ、自分も彼の息子もただ心配しているだけなのだ。どこかずっと不安定なままの、彼の行動が。
「別に毎日そこに帰ってこいなんて言わないし、そもそも僕も帰んないしね」
 元々その部屋は、五条が高専を出た後に、一人で住むために借りたものだった。当初は数ヶ月に一度空ける程度だったが、次第に帰る頻度が減り、最近は月に一度でも帰れば良い方というくらいにはなっていた。
 甚爾が住居を手放したのを見て、自分も使わない部屋を引き払ってしまおうかと思っていたところだったのだ。
「まあ、今後どうするかはともかくとして、今日はそこ使いなよ。恵にはナイショにしといてあげるから」
 ペラペラと口を回す五条に、甚爾は半ば諦めにも似た声で「わかった」と答えた。
 それが、ついひと月前の出来事だ。

 あれから甚爾はそれなりの頻度で五条の部屋を訪れているようだった。そこで生活しているのを直接見た訳では無いが、五条が何度か足を運んだ際に使用された形跡があった。
「それで、俺に聞きたいことってなんですか」
「甚爾ってさ、あんま家でご飯食べない方だったっけ?」
「アンタさんざんうちに飯食いに来てましたよね。人並みに食べますよ」
「そうだよねえ。うーん……」
 甚爾はあの部屋を使っている。寝室も浴室も台所も、五条がキーリングから鍵を外したその日よりもずっと綺麗に磨かれていた。立ち寄った際にシンクに置き忘れたグラスも、次に訪れた時にはきちんと片付けられている。ゴミ箱は常に空っぽで、新品の袋が掛けられていた。
 ただ一つ、備蓄された食料だけが五条の記憶と寸分も違わないことだけが気がかりだった。
「名前、ちゃんと書いてますか?」
「――名前?」
「アイツ自分が買ってきたものか名前書いてあるやつじゃないと食べませんよ。特に先生の家にあるものなんて」
「なにそれかわいい……じゃなかった。知らなかった」
 思い返せば、恵がまだ幼い頃五条の買ってきたお土産に真っ先に甚爾の名前を書いていた。冷蔵庫に入っているものや戸棚に置かれたお菓子にも、恵か甚爾の名前が書いてあるものがいくつもあった。
 恵の言葉を理解して、そして気付く。
「……待って恵、いま僕んちって言った?」
「言いました」
「えっ、知ってたの?」
「本人から聞いたんで……」
 内緒にしておく、という言葉を担保にしていたつもりの五条には、聞き捨てならない話だ。
 少なからずショックを受けた様子の恩師に、恵はフォローするように、言った。
「たまたまアンタが住んでたマンションの前で会っただけです」
「ああ、そうなんだ」
 甚爾が家を引き払ったことも、五条も同じくしようとしていたことも恵は知っている。最近回した任務の中に、あの近所のものがあったことを五条は思い出した。
 見かけたら、それは声を掛けるだろう。
「飯の話ですけど」
「うん」
「名前がなくても目の前に出せば食べるんで、構ってみたらいいんじゃないですか」
「ねえ、甚爾は野良猫かなにかなの……?」
 似たようなもんですよ。と言いながら、恵はちいさく笑みを零した。

(名前……名前かあ)
 寮内の、恵の部屋から自分の部屋へ移動するさなかで、五条は頭を悩ませた。
 あの部屋に置いてあるもの全てに甚爾の名前を書くことは、別段何も難しいことではない。数が多くて手間はかかるが、それだけだ。
 恵と話して五条が思い出したのは、何も食べ物のことだけでは無い。二人がもともと暮らしていた住居の様相についてもだ。
 恵が自分の小遣いで買ったと思わしきおやつやデザートには、必ず誰かの名が記されていた。それは確かだ。しかし室内は、あそこまで綺麗に磨き上げられていただろうか。
 元の部屋のグレードが違いすぎて上手く比較も出来はしないが、もう少し雑な――少なくとも水の一滴も残さず拭きあげるような清掃は、年に一度の大掃除くらいにしかしていなかった覚えがある。
(まだ全部僕のものなのかな)
 甚爾にとってあの部屋は「五条悟の部屋」であり、家具も設備も食料も、全て五条悟の持ち物なのだろう。傷めず、汚さず、より綺麗にして返す。きっとそんな感じだ。甚爾が来る度に部屋はどんどん綺麗になっているのが、その裏付けだった。
 甚爾にとって他人の家である以上、彼が冷蔵庫を開けることは無い。
(何も気にせず好きに使えばいいのに)
 部屋はもとより室内に残されたものも全て、五条は甚爾に明け渡したつもりだった。甚爾のものとして好きに使っていいのだと、どうすればそれが伝わるのだろうか。
 直接会って伝えようにも、彼の滞在時間はおそらくそう長くはない。いつ来るともしれぬ相手を待ち続けていられる程、五条も暇ではなかった。
「あ」
 自室の扉に手をかけたところで目に入ったものに、五条は思わず声を上げた。
 部屋中全部なにもかも、彼のものであると示すのに適したものが、そこにあったのだ。

 その日、そこで鉢合わせたのは本当にただの偶然だった。
 エレベーターホールから歩いてくる気配に気がつかなかった訳では無い。むしろ気がついていたからこそ、五は己の作業を優先したのだ。
「……なにしてんだテメェ」
「おかえり甚爾」
「オマエが使うんなら今日はやめとくわ。じゃあな」
 部屋の入口まであと数歩、というところで、甚爾あっさりと踵を返した。
 五条は来た道を戻ろうとする甚爾の腕を掴んで引き止めると、そのまま力ずくで部屋の前まで連れて行く。
 玄関扉の正面、やや右上に視線を促して、言った。
「まあそう言わないで、ちょっとこれ見てほしいんだけど」
「あ?」
 仕方なく顔を上げた甚爾の目に映りこんだのは、それまで空白だった場所にはめ込まれた、真新しい表札だった。銀色のプレートに黒字の刻印。ごく一般的なステンレス製のそこには、二人分の名前が刻まれていた。
「なんだこれ今すぐ外せ」
「いやあ、甚爾がいつまでも他人行儀な使い方しかしないから、壁一面に甚爾の名前書くかこっちにするか迷ったんだよね」
「頭わいてんのか」
「毎日帰って来なくていいとは言ったけど、ここは甚爾の家でいいんだよ」
「テメェの家だろうが」
「だから、僕と甚爾が気兼ねなく使える家ってことで」
 家の中にある家具も家電も寝具も食器も食料も、全部好きなだけ、好きなように消費していい。邪魔な私物を置いていっても構わない。
「僕の家だからセキュリティもそれなりにあるし、甚爾の家だから細かいこと考えないで使っていいし」
 表札の文字を指で辿りながら、五条は言葉を続けていく。
「掃除も適当でいいし、ベッドだって綺麗に戻さなくていいし、お腹空いたらあるもん適当につまんでいいし」
 便利でしょ、と問いかけられ、甚爾は一瞬言葉に詰まった。
「冷蔵庫の中、大したもの入ってないけどもうダメになっちゃうから、無くなるまで毎日甚爾に食事作って出すけど」
「やめろ」
「なんで。僕結構作れるよ」
「知ってるよ。テメェ弁当とか用意しそうだからマジでやめろめんどくせえ。俺が作る」
「甚爾の家だって理解した?」
「納得はしてねえけどな。あとその表札は絶対外せ、目立つのはごめんだ」
 苛立たしげに鍵を取りだし、甚爾は部屋の扉を開けた。
 言われた通りに表札を外し、五条は後に続いて玄関をくぐる。
 靴を脱ぐために前傾になった甚爾の背に伸し掛かり、五条は軽い口調で、言った。
「おかえり甚爾」
 腹部と胸部に腕を回し、痛まない程度の力を込める。望む答えを返すまで、絶対に離してやらないという意志も込めて。
 五条の意図を汲んだ甚爾は、大げさにため息をつきながら、口を開いた。
「……ただいま」
 シューズボックスの上へ置かれた真新しい表札は、その後しばらくそこに飾られることになるのだった。