錯覚と答え合わせ

 これは、錯覚だ。
 何も知らない子供に誤ったものを植え付けてしまっただけだ。隣で静かな寝息を立てる生徒を見て、五条は軽く頭を抱えた。
 どこかで何かを間違えたのだ。確実に。
(いや、でも、好きにしろって言われたし)
 好きに育ててみたらこうなった。なんて言い訳は、きっと世間様には通用しないだろう。
 初めからその気があったのかと言われたら、それだけは違うと言いきれる。お稚児趣味もなければ男色家という訳でもない。けれど、五条は子供の扱い方を知らなかった。家族の距離感というものもわからなかった。不慣れなまま不用意に詰め続けた距離はいつしか情となり、肌を合わせるに至ってしまった。
「……アンタ何難しい顔してるんですか」
 赤く腫れた瞼を上げて、教え子はため息混じりに言った。その気だるげな表情もかすれた声も、作り上げたのは数十分前の五条だ。
「育て方間違えたかなって」
「なんすかそれ」
「もっと全力で、僕を拒絶できるようにしておくべきだったのかなって」
 そうすれば、逃がしてあげるという選択肢が現れたのかもしれない。間違えていることに気づけたのかもしれない、と五条は責任転嫁にも似た言葉を発する。
 らしくも無いことを言っているという自覚はある。現に目の前の子供は訝しげな目を向けたまま黙り込んでしまった。
「僕はなにか錯覚を起こしていたんじゃないかと思ってさ。愛情と勘違いして昂って、君はそれに呑まれただけなのかもしれない」
 思いつくまま言葉に乗せれば、彼はから返事とともにため息を寄越す。
「……なんすかそれ」
「うーん、賢者タイム?」
 そうですか、とまた呆れたように言って、恵は再び布団に潜り、瞼を閉じてしまった。
「ねぇ恵、これが錯覚なのかどうか確認したいから、もう少し待っててよ」
「……いいですよ。俺も答え合わせしたいんで」
 そんな、いつ果たされるとも知れない約束を交わした。
 残暑が過ぎ、ほんの少し肌寒さを感じる、九月の終わりの頃だった。

 久方ぶりに開けた五条の視界に映りこんだのは、記憶よりも随分成長した教え子の姿と透き通った青空だった。
 肌を撫でる風は痛いほどに冷たく、息は白く色付いている。季節は冬だと言うことくらいが、五条が手に入れられた現在の情報だ。
「そろそろアンタに追いつきそうなんですけど、いつまで待ってりゃいいですか」
 眉間に皺を寄せて言うその顔は相変わらずで、五条は口元をほころばせた。
「答え合わせは終わったの?」
「もうとっくに終わってます。どんだけ経ったと思ってるんですか」
 言いながら、恵は手にした呪具を影の中へと収納する。五条の預かり知らぬ、見慣れない剣だった。
 差し伸べられた手のひらを素直に取って立ち上がる。身長は追い越されていなかったが、それでも随分と大きくなったように思えた。
 停滞していた空間で、幾度となく繰り返していた記憶。どれほどまでに考えても解らなかったはずのものが、触れた手の温もりひとつで明瞭になった。
「恵」
「なんですか」
「待たせてごめんね」
 まだ間に合うのだろうか。ほんの少しだけ不安になって手を引けば、思いのほかあっさりとその身は腕の中へと収まった。
「あと三年遅かったら、捨ててやるところでしたよ」