後世へ遺す前世の話

 彼はこの世の災厄だった。幾人もの術師が挑み、敗れる様を、恵はこの目で何度も見てきた。呪いの王――両面宿儺と呼ばれる男のその隣で。

「呪力の使い方を教えてやる」
 返り血に汚れた身を清め、一息ついたところで宿儺が言った。
 このところ術師の手勢が多い。手こずることがあるわけではないが、それでも以前より傷を負うことは増えた。
「俺は術師じゃない。教わったところでなんの役にも……」
「それでもだ。呪いの込め方を教えてやる。いいから覚えろ」
 遠く、山林の先を見詰めたまま、宿儺は続けて口を開く。有無を言わせぬその雰囲気に、恵は唇を引き結んだ。
「術式は俺が刻む。お前はそこに自分の呪力を流し込むだけでいい」
「……何をするつもりだ」
「俺の命は長くない。人の身である以上、その理から抜け出せる術は無いからな」
 どれだけの力を持っていようとも、老いと死からは逃れられぬのが人間だ、と宿儺は言った。だからこそ人は少しでも長く、生きながらえようと足掻くのだと。
「使わずに済めばそれに越したことはない。――が、あらゆる手段を講じておいて損は無い」
 言って、宿儺は恵の方へと向き直る。いつになく真剣なその眼差しに、めぐみは促されるまま両の腕を差し出した。
 宿儺の腕の一対が恵の手首を捕え、もう一対は指を絡めるように重なった。ゆるく握り返せば、全身を何かが巡る感覚に襲われる。
「すくな」
 ぞわりと肌が粟立つような、得体のしれぬ不安感に怯え、名を呼べば、彼はひどく穏やかな表情を浮かべて、言った。
 それは、俺の名ではない。と。

◇◇◆◇◇

 すべての手指を落とされても、彼は表情一つ変えなかった。それどころか、断面にしつこく巻かれた呪符を一瞥し、悠然とした笑みをうかべて、言う。
「この俺が、命をくれてやろうというのだ。約束を違えるなよ」
 数多の術師に囲まれ、あらゆる術や呪具に彼の身の自由はあらかた奪われているはずで、それでも彼の態度が変わらないのは、その程度で揺らぐほどに脆い根幹を持ち合わせていないということなのだろう。
 彼の喉元に刃を突きつけた術師は唾を呑む。緊張に乾いた喉を潤して、彼の出した「条件」を復唱した。
「ひとつ……この指は、あの者へ」
 術者は背後をちらりとみやり、壁に繋がれた青年を指し示す。術式を持たぬただの人。それは、彼の唯一の弱点だった。
「それから、ふたつめ……」
「アレを死なせるな。何があっても」
 言葉を選んでいたのか、言い淀んだ術者に代わって彼が答える。
 その言霊の強さに、訂正することは叶わない。
「ああ……わかった」
「いいな、忘れるなよ」
 彼は魂――呪いの王、両面宿儺と呼ばれた男は、誰も見た事がないような愉しそうな笑みを浮かべ、そして、死んで行った。

◇◇◆◇◇

 切り落とされた二十本の指を見て、その青年はひとつ息をついた。安堵とも呆れとも取れるその態度に、青年を囲う術者や関係者は、一様に口をつぐんだ。
 少年期から、両面宿儺と共に過ごした人間。青年に対する評価も情報も、その程度にしか存在しなかった。多少の呪力は持ち合わせているようだが、それを使う術は持たない、言ってしまえばただの人だ。連れられていた理由は不明瞭で、他に判っている事といえば「恵」と呼ばれていたという事だけだ。
 恵は眼前に転がされた指をひとつずつ拾い上げ、袖口へと仕舞っていく。所作の一つ一つが丁寧で、粗暴さは見当たらない。
 すべての指を収めると、恵は静かに立ち上がった。重みで沈んだ袖から見えたその手首に、黒い痣が浮かび上がる。
 岩壁の隙間からひどく淀んだ空気が吹き抜け、その場にいた誰もが凍りついたように動きを止めた。
「なぁ、知ってるか?」
 身動きが取れなくなった術師たちを見詰め、恵は言う。
「死なない人間はいないんだ」
 何処から取り出したのか、その手は短刀が握られていた。
「そうだろう?――」
 彼は静かに天を仰ぎ、そこにいる誰かへ語りかけるように呟くと、躊躇なく自分の喉へと刃を突き刺した。