360°

 ごとり、と何かが窓ガラスに当たる音がして、五条は眉間に皺を寄せた。
 タワーマンションの最上階のベランダ。人が入る余地もなければ、何かを投げ込まれるような高さでもない。寝に帰るだけのような家の外にあるのは、エアコンの室外機くらいなものだ。
「あのさぁ」
 カーテンとガラス戸を同時に開いて、何があるかも確認せずに口を開く。
 ここに転がってくるものは、ひとつしかない。
「来んなら連絡入れろって言ったよね」
「家ん中には入ってねぇだろ。セーフだセーフ」
「ベランダだけでも大迷惑だっつの。そもそもオマエ玄関から入ってきたことないじゃん。しかも何その血まみれ。せめて洗ってから来てくんない?」
 五条は思いつく限りの文句を言って、体液で汚れたシャツの胸ぐらを掴むと、それ――手負いの甚爾を室内へと引きずり入れる。
 全身を染める血液は本人のものでは無いのだろう。その証拠に、掴んだシャツの首元は既に乾いて固まっているし、頭を預けられていたガラス戸に血痕は見当たらない。
 引き入れて転がした床に広がる血溜まりとベランダのコンクリートに残った生々しい赤は、それでも彼が無傷ではないということを表していた。
「どこ怪我してんの」
 戸を閉めて、カーテンも引いてから、五条は己の足元に蹲ったままの甚爾へ問う。これが彼の息子であったなら、屈んで視線を下げた上で、全身に触れて確かめていただろう。ついでにスマホのカメラも構えて。
 五条の問いに答えもしない甚爾の、左の脇腹を抑えた指の間から赤黒い血が滴るのが見えた。
「甚爾。言わなきゃ手当もしてやんないよ?」
「いらねぇ」
 言って、甚爾は左腕を支えに上体を起こす。血に染った右手が五条の下衣へ伸びて、力任せに布を引いた。
「あっ! ちょっと!」
 ぱちんと軽い破裂音が鳴り、弾かれたボタンが床に落ちる。
 なにしてくれてんだ、と苦言を呈す五条に構いもせず、甚爾の指は五条の下着のふちを迷いなく辿っていく。兆してもいない中心に鼻筋が触れ、唇は媚びるように陰嚢を食んだ。
(あぁ……今日はそっちか)
 この男が家に侵入してくる理由は主にふたつだ。ひとつは緊急避難と称した金とセックス。今回の件はそれではない、もうひとつの理由だろう。――この男は、己の尊厳を捨てに来たのだ。
 五条はひとつため息をついて、布越しに舌を這わせ始めた黒髪を掴む。乾いた血でごわついたその感触が、妙に癪に障った。
「しゃぶりたいんならさぁ、先にやる事があるよね」
 股ぐらに縋り付く頭と腕を引き剥がして、五条は言う。
「風呂場の場所、わかるでしょ」
 床に落ちた甚爾の両腕に力が籠り、怪我と疲労で鈍くなった体を動かす。そのままゆるりと立ち上がり、五条の示した所へ覚束無い足取りで向かって行った。

「怪我人一人で風呂場に行かせてケツまで洗えって何考えてんだ」
 風呂に入って少しは気持ちが落ち着いたのか、甚爾は出てくるなり五条に文句を言った。汚れていた着衣は勝手に廃棄して、部屋にあった適当なTシャツと袴――上はともかく下はサイズが合うものがなかった――を着させている。腰の傷は厚手のタオルで圧迫し、一応の止血をしているが、天与呪縛の肉体ならば放っておいてもじきに治りはするだろう。言ってしまえば「その程度」の傷だ。
 五条は留め具を壊された下衣を纏ったまま足を組み、リビングのソファーでタブレットの操作をしていた。今日挙がってきたいくつもの書類を雑に読み飛ばし、目的のものを一つ詳細表示に変えると、甚爾に見せるように膝の上へと置く。
「あったあった。これでしょ」
「は? なにが」
 苦言を無視した五条に苛立ちを隠さぬまま、甚爾は五条の示した画面を覗き込む。赤く目立つ文字で極秘と書かれたそれは、今日の日付が記載された上層部からの報告書だった。
――禅院家の呪術師三人殺害、犯人は逃走、特定ならず。
 現場の写真に被害者の名前、凶器や殺害方法など、思いのほか詳細に記されていたそれに、甚爾は苦々しげな表情を浮かべた。
 五条は画面をスクロールして、報告者が虚勢を張るように追記した項目に指を合わせる。
「犯人は重傷を負ってるって書いてあるけど、そいつなら僕の目の前でピンピンしてるよ。ウケる」
「いやピンピンはしてねぇよ。そこの血溜まりが見えねぇのか」
 フローリングに染み付いた生乾きの血痕を顎で指し示して言うと、甚爾は床に腰を下ろした。
「それでさ、甚爾」
 タブレットを脇に伏せ、五条は組んでいた足を崩す。浮かせた足をそのまま甚爾の肩の上へと乗せて、言った。
「犯して欲しいなら勃たせてよ」
 膝を曲げ、踵で軽く背を叩けば、甚爾の体は容易く傾いで床に両手を着く。四足で躊躇いがちににじり寄るその頭に手を置いて、未だ湿っているその髪を撫で、五条は静かに笑みをこぼした。

◇◇◆◇◇

 初めて肌を合わせた時から、優しく抱くという選択肢はなかった。氷点下を切るような寒い夜、血に塗れて蹲っているその姿に、五条は確かに劣情を抱いたのだ。
「ねぇ、オマエなにしてんの」
 開け放った窓から冷たい風が入り込み、室温が逃げていく。暖かいその空気に触れた血まみれの塊が、ちらりとその顔を上げ、口を開いた。
「緊急避難」
「ここ何階だと思ってんの」
「最上階ってのは一番入りやすいんだよ。知らねぇのか」
 上から飛び降りればすぐだ、と、おおよそ普通の人間には出来ないことを平然とのたまって、彼は五条の足元から部屋への侵入を果たした。
 泊めろ、ついでに金も、とまるで過去の殺し合いなど無かったかのように言った甚爾に、代わりに好きにヤらせろと提示したのは五条の方だった。

 赤く染みたパイル地に指を食い込ませると、甚爾は唸るような声を漏らした。同時にきつくなる後孔に五条は笑みを深くして、逃げ打つ甚爾の背を抑えつける。血色の悪くなった背中に擦り付けられた赤い血痕は、酷く艶やかで蠱惑的に見えた。
「人間ってさ、死にそうになると性欲が増すんだって」
 深く差し入れていた陰茎をゆっくりと引きながら、五条はまるで世間話のような口振りで、甚爾に言った。
「種の繁栄だかの本能が働くらしいよ。甚爾知ってた?」
 ギリギリまで抜いて、またゆっくりと沈めていく。五条の言葉は聞こえているのかいないのか、甚爾はただ声を抑えて小さく頭を振った。乾き始めた髪がフローリングを擦る音が鳴り、次いで、深い呼吸音が響く。
 結腸に届く直前まで突き入れてから、五条は甚爾の背に伸し掛り、その耳元に口を寄せた。
「……ああ、そういやオマエは人間じゃなくて猿だったっけ?」
 これまで生きていく中で嫌ほど言われた侮蔑の言葉に、甚爾の身体が跳ねる。強く握りこまれた拳の下に、薄く剥がされ艶の消えた木目が見えた。
「……も、いい」
 これ以上は必要ないと拒絶する言葉と共に、甚爾は五条の下から這い出そうと身を捩った。けれど五条はそれを許さず、腰と肩に回した腕の中へと閉じ込める。
「オマエが良くても僕が良くないの。早くココ開けろよ」
 それとも無理やりこじ開けられたい? と囁いて、五条は甚爾の体を抱き込んだまま身を起こす。何をされるのかを察した甚爾が床に爪を立て、フローリングにはまたひとつ傷が増える。
「あんまり床剥がすのやめてよ。修繕するのそこそこかかるんだよ?」
「そうさせてんのは、テメェだろうがっ……!」
 もういい、やめろと繰り返す声を聞き流し、五条はその身を己の股ぐらの上へと乗せた。
「ほら、入れるよ」
 直腸の突き当たりに先端をあてて揺さぶって、言う。甚爾は怯えとも諦めともつかぬ様子で息を呑み、自らの口を両手で塞いだ。
 
◇◇◆◇◇

 あらゆる体液に汚れた床を拭った布をゴミ箱に放り込んで、五条はカウンター越しにリビングに目をやった。
 結腸を開いてその奥に二度吐精したところで、甚爾の身体が傾いだ。応急処置のつもりで巻いていた布は真っ赤に染まり、もはやその役割を果たしておらず、幾度も抉った傷跡は流石の五条も引くほどに変色していた。妙な空気に呑まれて居たとはいえ、やりすぎた、と自覚している。
 ただの被害者のようになってしまった甚爾はと言えば、下着一枚を身につけてソファの足元に座り込んだままだ。胸部は緩やかに上下しており、一応呼吸はしているようで安心した。
「甚爾、生きてる?」
「死んでる」
 なんとなくそう訊けば、すぐに応えが返ってきた。割と本当に、死にそうな声ではあったが。
 冷蔵庫を開け、冷えた水のペットボトルを一本取り出しキャップをひねる。中身を三分の一ほど一気に喉に流し込んでから、また訊いた。
「飲む?」
「いる」
 相変わらずの生気を感じぬ声音で甚爾が言った。ちらりと五条を見やった半眼からは、感情を読み取ることが出来なかった。
 かさが減って軽くなったボトルを投げ渡し、五条はケースに入ったままの、冷やしていない水のボトルを二本と、いつからか常備するようになった処置用品を取り出した。
「腹は?」
「今食ったら吐く」
 渡したボトルはもう空になっていて、僅かに俯いた顔色はもちろんよろしくない。
 ことに及ぶ前に確認した報告書から逆算すれば、彼は今日一日まともな食事を摂る時間などなかったはずだ。空きっ腹にあれだけの事をされたら、吐くというのも頷ける。
 五条はぼんやりと床を見つめた甚爾の前に膝をつき、空のボトルを弄ぶ左腕をとる。
「手当てするから」
「ん」
 五条の言葉に短く応え、甚爾は促されるまま取られた腕を五条の肩の上に載せた。脇腹の傷はぱくりと口を開け艶やかな赤色を覗かせているが、出血はもうないようだった。その周りの皮膚は黒とも紫とも言える色に変わっている。
「うっわ痛そ。えっぐ」
「オマエのせいだろ」
「だからこうして色々持ってきたでしょ」
 水とタオル、ガーゼに包帯、サージカルテープ。消毒液の類が見当たらなかったが、まぁなくても良いだろうと判断した。一通りのものを床に並べて、五条は手当てを進めていく。水で洗ってガーゼをあてて、テープで止めて帯を巻く。その様子を眺めながら、甚爾は手持ち無沙汰になった右手を持ち上げて、五条の額――左眉根の上のあたりを指先で触れた。
 そこは紛れもなく、何年も前に甚爾が五条につけた傷の辺りだ。
「甚爾」
 指は頬を経由して、そのまま喉元へたどり着く。喉から右の腹へ。斜めに滑るその動きは、あの日と同じだ。
 あの日斬られたその終端に至る前に、五条は甚爾の右手を抑える。
「……甚爾」
 二度目の呼び掛けで、甚爾はようやく五条の目を見た。薄らと焦点の合わない「いつも」とも「いつもの例外」とも違う、初めて見せる表情だった。
「そんなに僕に拾って欲しいの?」
 何を、と明確に告げる必要も無い。そもそも彼は、それを捨てに来ているはずなのだ。
「それは、拾うな」
 甚爾の目と声に焦りが滲み、触れた手指は逃げるように揺れた。五条はそれを捕まえて、もう一度自分の喉元へと誘導する。
「……もう遅いよ」
 そのままするりと肌を寄せ、言った。
「オマエが捨てたもん全部拾って、全部そのまま返してあげる」
 だからこれは持っていってよ、と、初めて触れた唇は拒まれなかった。