爛れた初恋

 しわくちゃになったシーツの上で小さく上下する背を撫でる。薄っすらと汗ばんだ肌の感触は、こんな時でもなければきっと不快なだけだっただろう。
 うつ伏せて枕に顔を埋めていた甚爾の顔を上げさせて、その表情を確かめる。赤く上気した肌と潤んだ瞳。ちらりと覗き見た下腹部は甚爾のもので濡れていて、僕はひとまず安堵した。
「ねえ、甚爾」
 体の相性はそんなに悪くはないはずだ。むしろ僕が今まで抱いた人間の中で、甚爾は一番具合がいい。多少の無茶をしたところで翌日に響くこともなければ、わざとらしく媚びて来ることもない。関係性に名前をつけようとしてくることもなく都合も良かった。僕の中で甚爾はそういう存在だ。
 初めて抱いたのがいつだったのかはもう殆ど覚えていない。ただ、僕も彼も互いが初めての相手ではなかったのは確かだ。僕は男女問わず適当に見繕って抜いていたし、コトに及ぼうという段階で、甚爾は僕にこう言ったのだ。勃たせるのが面倒だからケツを使え、と。
 慣れているのなら好都合と思っていたのはほんの数ヶ月だけだった。僕は無意識に甚爾の反応を観察するようになって、気づいた時にはひとつの疑問が生まれていた。
「なんで声出してくんないの?」
 そう、僕は甚爾の嬌声というものを、今の今まで一度も聞いたことがない。
「――出ねえもんはしょうがねえだろ。諦めろ」
 僕の言葉に顔を顰め、甚爾は心底面倒くさそうにそう言い捨てた。そのまま小さく舌打ちをして床に落ちたパンツを拾い、寝室を出ていく。扉が閉まるその直前で聞こえた大きく息を吐く音が、やけに耳について離れなかった。

「――という訳で、経験者に話を聞いてみたくてさ」
 翌日、僕は手っ取り早く話が聞けそうな人間として、悠仁と恵を自宅に拐った。
「ちょっと待ってどういうこと」
「その話、俺がいないとダメですか。父親のそういう話聞かされるの正直しんどいんですけど」
「しょうがないじゃん。僕が知ってる中でケツ掘られてんの恵しかいないんだもん」
 僕の物言いにイラついたのか、恵は舌を打って立ち上がる。別にどちらかひとりが残ってくれさえすれば割と問題は無いのだが、恵が居ないのは少々面白みに欠ける。
「恵が帰るんなら悠仁からあることないこと全部聞いちゃうけど、それでいい?」
 僕の言葉に恵はびくりと動きを止めた。
「いや俺もそんな色々聞かれてもあんま答えらんないよ?」
「別に難しい質問はしないよ。――でさ、恵ってどういうときに声出す?」
「どういうとき……? うーん……」
 真面目に考え始めた悠仁の隣に、恵は静かに座りなおした。悠仁が失言をしないように見張るのが目的なのだろう、僕とは一切目を合わせてくれない。
 制服の襟で隠しているつもりの頬が、ほんのりと赤くなっているのが見えた。
「前は結構抑えてたけど」
 うんうんと頷いて、僕はその続きを促す。
「最近は割と諦めてる感じかなぁ」
「出ちまうもんはしょうがねえだろ」
 嫌なら耳でも塞いでろ、と吐き捨てたその姿はめちゃくちゃ甚爾に似ていた。言っていることは正反対なのに。
「アンタが下手なんじゃないですか」
「それはないよ。ちゃんと見てるもん」
「じゃあもともとの癖とかじゃないですか」
 やけくそみたいにそう言って、恵は完全にそっぽを向いてしまった。
 恵の言葉を引き継ぐように、今度は悠仁が話し始める。
「確かにあんまり声出す人じゃないよね。恫喝はするけど」
「されたことあんのか」
「伏黒と付き合ってるのバレたときめちゃくちゃされたよ……」
 言われてみれば、恵に関する事柄以外で甚爾の口数は確かに少ない。僕が話を振らなければ一言も話さないこともある。育った環境に起因するところもあるのだろう。気配を消すのも殊更にうまかった。
「――そういえば」
 ふと、恵が何かを思い出したように、言った。
「アイツ気を張ってるときメチャクチャ息詰めるんで、ガキの頃は息してんのか心配になったことありますよ」
 声を殺して、息を詰めて。甚爾が生きてきた場所は、多分ずっとそういうところだったのだと、容易に想像はついた。
「先生がうちに来るようになってからは、あんまりそういう事なくなりましたけど」
 恵のその言葉に、僕はようやく合点がいった。
 少なくとも僕は、甚爾が気を抜いて生活している姿を知らない。つまり、甚爾はきっと今でも、僕を警戒しているのだ。

 何がそんなに癪に障ったのか、その瞬間は僕にもいまいちよくわからなかった。
 ただなんとなく腹が立ってしまったのだ。警戒されているというその事実に。
「……なんだよオマエ、今日もすんのか?」
「するよ。するけど、その前にちょっと言いたいことがあって」
「は?」
 訝しげな視線を向ける甚爾の手を取って、僕は寝室へと足を向ける。
 恵と悠仁を寮に帰して、適当につけた映画を観るでもなく眺めているうちに、僕はそのもやもやした何かの正体に気がついてしまった。
 気づくのが遅いとかそんなはずが無いとかの慌てる感情よりも前に「これか」と納得してしまうくらい、当たり前の気持ちだったのだ。
「おい、まだ準備してねえぞ」
「いらないよ。僕がやるから」
「オマエ、昨日からなんかおかしいな」
「その昨日の件で恵と悠仁にちょっと相談したんだけどさ」
「ガキ相手に何の話してんだてめぇ」
「それで気づいたんだよね。僕さ、甚爾のこと好きだよ」
「……は?」
 今まで見たこともないような呆けた顔をする甚爾をベッドに座らせて、そのまま静かに肩を押す。素直に寝転んだ甚爾を上から見下ろして、また息を詰めているその胸に手のひらを乗せた。
「恵が言ってたんだよね」
 そういえば、こうやって正面からちゃんと向かい合ってしたことはなかったかもしれない。いつも見ていた景色は、枕を掴んで蹲ったその背中だった。
「甚爾が気を張ってる時は呼吸が浅くなるって」
「オマエ、なに言って」
「僕は甚爾が好きだよ。――だからさそんな警戒しないで」
 甚爾は言葉を失って、驚愕したような目で僕を見ている。
「ちゃんと全部、僕に見せてよ」
 いつもとは違う理由で赤くなった甚爾の顔は、昼間に覗き見た恵の顔に良く似ていた。

 僕は今まで、恋愛という概念を理解出来た試しがなかった。人間なんて、好きか嫌いか、使えるか使えないかの二択で振り分けて扱っていたし、それで支障が出たことも無い。幼い頃から望んだものはある程度手に入るような状態で、今なら自らが多少強引な手を使って奪い取ることだってできる。
 それだけの権利と強さと環境が僕にはあった。
「甚爾」
 僕の気の済むまで後ろを解され、僕の気が済むまで全身を撫で回され、何度も後孔を穿たれ続けた甚爾は、余韻に身体を震わせたまま恨めしそうに僕を見た。
「す……」
「うるせえもう言うなわかった」
 続けようとした愛の言葉は甚爾の手のひらに遮られ、流れるように言葉で釘を刺される。
 いつも通りにバスルームに向かおうと身を起こした甚爾が、中途半端な体勢で動きを止めた。かたかたと小刻みに揺れる自分の足を見て、甚爾はここで深いため息をついた。
「……立てる?」
「無理だな」
 ここまでしても現実に則した判断をいつもの調子で口にする甚爾に、僕は久々に燻った敗北感を覚えた。
 一体どこまで溶かしたら、僕に対してぐずぐずに甘えるようになってくれるのだろうか。
 バスルームまでのエスコートをしようとベッドを降りた僕の腕を、甚爾が躊躇いがちに掴んだ。
「オマエ、多分ひとつ誤解してんぞ」
「僕が? 何を」
「恵の話をだよ」
 掴んだ僕の腕を支えにしながら、甚爾は震える足をベッドから下ろした。
「オマエが来たから、恵のことで気が抜けるようになったんだ」
 僕が来てから甚爾は恵の前で息を詰めることを――警戒することをやめた。
(五条悟 オマエ)を後見人として構えたガキなんて、下手な手出しも出来ねぇだろ。アイツに何かあってもオマエがどうにかする。――だからそれが、オレがアイツの前で気ィ抜いていられた理由だよ」
 つまり、甚爾が気を張りつめていたのは、恵を庇護するためだったという事か。
 僕はそう理解して、ふらふらと立ち上がる甚爾の肩を支える。踏み出そうした足が不安定に絡まって、甚爾は苛立ったように舌を打った。
「今更めんどくせぇこと考えやがって」
「気になっちゃったんだから仕方なく無い? 結局甚爾は僕のこと信用してないのかと思ったよ」
「してなきゃここまで許してねぇよ」
 自分で歩くことを諦めたのか、甚爾は両腕を僕の首へ回してくる。誘われるまま腰と膝裏へ手を伸ばせば、なんの躊躇いもなく抱き上げられてくれた。
「それでもずっと息詰めてたのはなんで?」
「癖だよ癖。余計な事しねぇで大人しくしてりゃすぐ終わるってのが身に染みてんだ。まさか裏目に出るとは思わなかったが」
「じゃあその癖、僕が治してもいいよね」
「……勝手にしろ」
 そう言った甚爾の顔は僕の肩口に埋まったままで、見えずじまいだったのが残念ではあったけれど。
 この先きっと、見たことの無い姿を沢山見せてくれるに違いないのだ。
 爛れきった関係から始まった僕の小さな初恋は、ようやく人並みのスタートを切れた。