甘い匂いに誘われて、恵は目を覚ました。カーテンの隙間から覗く光は朝にしては強く、寝過ごしたのだと気付くまでに時間はそう掛からなかった。隣にあるはずの温もりもなく、空いた場所は既に冷えきっていた。
身を起こし、サイドテーブルに置かれた時計へと目を向ける。辛うじて午後に至ってはいないが、針はそろそろ頂点で重なろうかというところだ。このまま二度寝をしてしまったら、次に起きるのは日が落ちてからになるだろう。
流石にそれは困る。と恵は布団を捲り、そのままベッドから足を下ろした。年明けまで十日もない時期にも関わらず、部屋は適温に保たれている。
素足にスウェットの上下という出で立ちのまま、恵は寝室を後にした。廊下は幾分冷え込んではいたが、目的の部屋はすぐそこだ。
「おはよう、宿儺」
広いアイランドキッチンの奥、備え付けのオーブンの前に立つ背中へ声をかけ、カウンターに置かれたコーヒーメーカーへと足を向ける。いつものように豆を出そうとしたところで、後ろから伸びてきた腕に動きを制された。
「あぁ、待て。今日は別の用意がある」
「別の?」
「向こうで座って待っていろ。ついでに軽食も持っていく」
恵を緩く抱き寄せて言う宿儺の身体も、甘やかな匂いを纏わせている。
わかった。と頷いて、恵はカウンターの先にあるソファへと足を向ける。座ってしまえば、高さの都合で宿儺の手元を窺い知ることは出来なかった。
程なくして宿儺が持ってきたのは、バゲットのフレンチトーストと、いつもより香ばしい匂いのするコーヒーだった。
宿儺はそれらをテーブルへ置くと、そのまま恵の隣に腰を下ろす。巻いていたハーフエプロンはどうやらキッチンに置いてきたようだ。
「もういいのか?」
「ああ、ひと段落は着いた」
いただきます。と手を合わせ、恵はフレンチトーストを手に取った。漬け込む時に混ぜていたのか、生姜の香りが染み込んでいる。
「ジンジャーフレンチトーストだ。いくつか作って試したが、それが一番美味かった」
現世での生活で宿儺が真っ先に興味を持ったのが料理だった。だからこそアイランドキッチンのある広い部屋を契約してきたのだ。毎日、恵が家を空けている間にも色々と作っては試していたらしい。
「こっちのコーヒーも、いつもと違うんだな」
「別の用意があると言ったろう。今朝俺が焙煎した」
家にはコーヒーミルもある。焙煎した豆さえ用意すればいつでも美味しいコーヒーを口にすることは出来るというのに、それで満足はしなかったのだろう。変なこだわりの強さは、そのコーヒーの味にも出ていた。
どうだとばかりに見つめてくる宿儺に、恵は顔を綻ばせた。
「どっちも俺の好みだ。美味しい」
恵の返答に宿儺は満足そうに目を細める。
「出掛けるか部屋にいるか、どちらがいい?」
「何か用事でもあるのか」
「いいや。オマエはどちらがいいかと聞いている――誕生日だろう。望むことはなんでも言え」
誕生日。
その言葉を聞いて、ようやく恵は思い至った。
数日前に欲しい物はないかと訊かれたこと。特にないと答えたこと。
穏やかに過ごせるこの日々が、幸せなのだと零したこと。
「……じゃあ、飯作ってるの手伝いたい」
「オマエの祝いの料理だが」
「邪魔なら」
「いや好都合だ。味の好みの細部まで教えて貰うとしよう」