夢の跡先

 師走の大晦日。五条が持ってきたコンビニの袋の中には、いくつもの飲食物の他にふたつセットのショートケーキが入っていた。
 今年は行けても遅くなるかもしれない、と事前に送り届けたホールケーキも今頃冷蔵庫で解凍を待っている事だろう。
 毎年ケーキの大半は五条が平らげ、祝われている当人はと言えば、さしたる興味も示さずに出されたものをいつも通りに口にする程度だ。
「また珍しいもん買ってきたな」
「なんか懐かしくなっちゃってさ」
 コンビニの店内広告で「お正月」の文字を見つけた時に、突然蘇ったのは十年前の記憶だ。
 同じように正月準備の宣伝を掲示していた店内で、好きな物を買っていいと伝えた恵が持ってきたのが、ふたつ入りのショートケーキだった。
 十二月は五条の誕生日に始まり、恵の誕生日にクリスマス、何も無い日にだって街中に溢れた色々な季節限定のケーキを食べさせていて、五条が白い小さな箱を持ってきただけでウンザリとした顔を見せていたというのに。
「ケーキ、飽きたって顔してなかった?」
「飽きてますけど……とーじの誕生日だから」
 買ってもいいですか、と遠慮がちに訊く子供に、五条は既に山になりかけたカゴを差し出したのだ。好きな物を好きなだけ入れていい、溢れたらもうひと山作ると言葉を追加して。
 恵は結局、パウチに入ったもつ煮込みを一つ追加して、それでその日の買い物は終わった。
「僕あの時、甚爾にも誕生日あるんだなって思ったんだよね」
 もっと正確に言うのであれば、五条はその時はじめて気が付いたのだ。甚爾も人の子であるという当たり前の事実に。
「まあ、無かったようなもんだけどな」
 あの古めかしい思想の家で、人ですらないと扱われた甚爾の誕生日など、祝う人もいなかっただろう。ましてや大晦日だ。ただこき使われるだけの一日だったであろうことは想像に難くない。
 五条の買ってきた物の山から要冷蔵の物だけを拾い上げ、甚爾は席を立った。白いケーキとプラスチックのフォークはテーブルに残されたままだ。
「これ食べるの? 送ってあるやつは?」
「遅くなるっつーから時間ズラしてたんだよ。まだ解けてねえ」
「えー、僕と一緒に食べたかったんだ?」
「一人で食うサイズじゃねえだろ。――そういやオマエ、その任務はどうしたんだよ」
「それがさあ……甚爾のために秒で片付けてきたって言えたらよかったんだけど」
 実際、直ぐに終わる内容ではあったのだ。呪霊の等級も、規模も、わざわざ五条が出るまでもない二級以下の案件だ。出発前に伊地知に八つ当たりをしていた五条は本当に「秒で片付ける」つもりでいた。
「それ、俺と虎杖が変わります」
 閑散とした寮の廊下で話していたのが仇になった。通り掛かった恵は当たり前のようにそう言って、五条が受け取りを渋っていた資料を横からさらって行った。
「流石にそういう訳にもいかないよ」
「千葉の海沿いなら行く予定だったんで、ついでです」
 呪術師に年末年始も無い、とは分かっているのだが、五条は彼らになるべく「年相応の」年末を過ごして貰いたかった。だからこうして、生徒たちに回してもいいようなものすら引き受けていたと言うのに。
「恵」
 咎めるように語気を強め、奪われた資料を取り返そうと伸ばした腕はきれいにかわされた。そしてそのまま、恵は手にした資料を乱雑に影の中へと落としてしまった。
「アンタには別にやって貰いたいことがあるんで」
 有無を言わせぬ強い視線。気圧された訳では無いが、この目をした恵がいかに頑固なのかを五条は良く分かっていた。
「――でさ、コレつけて甚爾んとこ行けって追い出されちゃった」
 言いながら五条が差し出した左手の薬指には、細身のリボンが結び付けられている。ベースは緑で縁どりは赤、所々に金色の模様が入ったそれは、数日前までは街中でよく見た配色だ。
 それになんの意味が込められているのか、恵は五条に何の説明もしなかった。
 けれど。
「……アイツが?」
「そう。恵が僕につけてった」
 驚愕した様子で立ち止まる甚爾を見て、五条はすぐに理解した。
 これは本来、恵さえ知り得るはずのない「彼女の記憶」のひとつなのだと。

「えっ! とーじくん今日が誕生日だったの?」
 どうしよう、なんにもないと慌てふためいているのは、跳ねた癖毛の小柄な女性だった。
 アナログ式の壁掛け時計は十時を示しており、閉じられたカーテンの隙間から見えるのは、薄暗い街明かりだ。
 ぶ厚いブラウン管のテレビの上には、可愛らしい動物の置物がいくつかと、小さな鏡餅が載せられている。
「ちゃんと用意したかったのに、どうして教えてくれなかったの?」
「聞かなかったろ」
「そうだけど~」
「別にいいだろ。そんなに大騒ぎするようなもんじゃ……」
「とーじくんが良くても私は良くないの!」
 冷蔵庫の中、戸棚、テレビの裏。ゴミ箱すらひっくり返しそうな勢いで、彼女は部屋中を忙しなく探し回る。
 壁に下げられたコートのポケットに触れた時、その顔は何かを閃いたように明るくなった。
「誕生日はね」
 ポケットの中から取り出したものを手に、彼女は笑顔で向き直る。
「生まれてきてくれてありがとうって伝える、大事な日なんだよ」
 左のてのひらに載せたものを差し出して、彼女は明るくそう言った。
 赤と緑。クリスマスカラーのそれは、数日前に甚爾が彼女に贈った箱を包んでいたものだった。
「これ、結んで」
「……どこに」
「薬指がいいな」
 言って、彼女は出した手をそのままくるりと返す。
「もう二時間もないけど、とーじくんがして欲しいこと、何でもする」
「例えば?」
「買い出しとか」
「店閉まってんだろ」
「料理とか……」
「もう食ったろ」
「掃除……」
「昼に終わってる」
 無骨な指で結ばれていくリボンを見ながら、彼女は揚々と――しかし徐々に消沈しながら口を回す。
「……なんにもない」
「なくていいって言ってるだろ」
 畳にぺたりと座り込み、落ちる手を取りながら、甚爾は言った。
「何もしなくていいから」
 当たり前のように指が絡み、彼女の体は引き寄せられるように甚爾の胸へと落ちていく。
「ここに居ろ」
 静かな住宅街。古いアパート。時折差し込むすきま風と、針が時を刻む音以外なにもない、静かな夜だった。

 隣に戻ってきた甚爾は、座るなり五条の手指に触れながら俯いたままだ。
 結び目を辿り、手のひらを撫で、時折指を絡ませる。甚爾の記憶にあるものと今ここにあるものが同じはずが無いことは、確認の必要すらないほどに分かりきっていることだというのに。
「甚爾、恵になんかあげた?」
「やった」
「じゃあ、多分それだね」
 呪力のない甚爾に呪いは残せない。それならば、彼女の愛がきっと誰もが思っている以上に深かったのだ。呪いと言うにもおこがましいほど純粋で美しい、ただの記憶の断片。
 絡めた指はそのままに、五条の肩に頭を載せて黙り込んだ甚爾に、五条は静かに息を吐いた。
 彼女の愛には、一生勝てる気がしない。

※めママの夢を見たのは恵。
※甚爾が恵にあげたのは箱の中身。