お子様ランチと大男

 玄関の戸が、勝手に開いた。その表現は正しくは無いのだが、幼い津美紀にはそう思えたのだ。
 珍しく――おそらく初めて母が留守番を頼んできたのは、ほんの三十分ほど前の事だ。保育園から帰宅する途中で、母の持つ携帯電話が鳴った。二言、三言の会話を終えた母は帰路を急ぎ、申し訳なさそうに津美紀に言ったのだ。少しだけ留守番をしていて欲しい、と。
 常日頃から、誰が訪問してきても出なくていい、とは言い聞かされていた。しかし、誰かが入ってきた時にどうすればいいのかについては、ついぞ聞いたことが無かった。津美紀は恐る恐る玄関を覗き込み、目に飛び込んできた光景に凍りついてしまった。
 狭い玄関で物音も立てずに靴を脱ぐ大柄な男。その腕には小さな男の子が抱えられていて、足元には見慣れたスーパーの袋。時折母が観ているドラマの、悪人と善人を足しただけのような風貌に、津美紀の思考は追いつかない。
「あの、どちらさまですか」
 必死の思いで出した声は、隣にいても聞こえるかどうかが怪しい程に小さかった。けれど、玄関の男は静かに顔を上げて津美紀を見ると、視線を合わせるためなのか、その場に静かに腰を落とした。
「君の、お母さんに頼まれて――」
 三和土の上にしゃがんだ男はそう言いながら手を伸ばし、津美紀の目の前で、小さな鈴の音を鳴らす。握られた指の隙間から、プラスチック製のうさぎが顔を出した。
「晩御飯を作りに来た」
 眼前でゆらゆらと揺れるそのキーホルダーを選んだのは母で、無くさないようにと鈴を付ける提案をしたのは津美紀だ。母の持つたくさんの鍵と一緒になったものとは別の、津美紀専用の「おうちの鍵」だ。お留守番ができるようになるまで、母が預っているという約束をしたのを覚えている。
「わたしの!」
 津美紀は小さく声を上げ、揺れるうさぎへ手を伸ばした。うさぎは逃げることなく捕まって、小さな手のひらでくぐもった鈴の音を鳴らす。大きな男の手の中にあった、小さな鍵。人肌に温められたそれは、母から託されたものなのだろう。
 手にした鍵に視線を落とす津美紀の頭を、大きな手のひらがゆっくりと撫でた。大きさも強さも母とは違うが、母と同じ優しさがあるように思えた。
 津美紀がそろりと目をあげると、人相の悪い――目付きのキツい、口元に傷のある男の人相は、決して良くは見えない――男が、穏やかな笑顔を作って言った。
「お母さんからじゃなくて悪かったな」
 この鍵の、母との約束を知っているのだとすぐに理解して、津美紀はこの男を「お母さんの知り合い」だと認識した。
 男の言葉に首を振って意を示し、スカートのポケットに鍵をしまう。それから玄関に置かれたままの袋に向かうと、中身を覗く前に男に向き直った。
「お手伝い、する事ありますか」
「そうだなあ」
 彼は呟いて、肩に乗せた子供を下ろす。覚束無い足で立つ、無愛想な子の背を押して、男は再び人好きのする笑顔を向けて、言った。
「コイツのこと見ててくんねえか。暴れも騒ぎもしねえだろうが、なんかあったら呼んでくれ」

 丸く型どられたチキンライスに、ハート型のハンバーグ。花の形に抜かれたキャロットグラッセとブロッコリーが、花束のようにまとめて添えられている。皿の傍らにはプリンも用意されていて、自宅の食卓に現れたお子様ランチに、津美紀は目を輝かせた。
 母はあまり、料理が得意な方ではなかった。単純に時間が無かっただけなのかもしれないが、あまり手の込んだ盛りつけをしているのを見たこたがなかったのだ。
「すごい! レストランみたい!」
 思ったままを口にする津美紀に、甚爾は少し照れたように笑った。
 男の子の名前は「恵」で、父親の方は「甚爾」と言うらしい。料理の邪魔をしないようにと気をつけながら、津美紀が聞き出せたのはそのくらいだ。
 どこで、どうして母と甚爾が知り合ったのかなど、幼い津美紀には興味がなかった。ただ甚爾の料理が気に入って、自分よりも小さな恵がかわいいと素直に思っていた。

 その日から、甚爾は度々家を訪れるようになった。恵を置いて数日顔を見せないこともあったが、母は特に気にしていなかったように思う。時折よく分からないことを話すが、悪い人ではなかったはずだ。恵は少し、寂しそうにしていたけれど。